頭には浮かんでいるのに、言葉がわからない・・・。
この経験で私の一番の思い出は、「くじら」です。
通訳を始めたばかりのころ、初めての入札会の通訳、続けていった省庁への表敬訪問。緊張してガチガチの私に「大丈夫、ボンジュールっていうだけだよ」とセネガル人の客人は気遣ってくれましたが、訪問先には多くの見学者と白いカバーのかかったソファー。緊張ガチガチのまま会議開始。プロジェクトの話が一通りすむと、「そういえば国際捕鯨委員会が始まりましたね。」という話題に。
”ほ、捕鯨?くじら?くじら??なんていうの?”
試しに「ホエール・・・(whale)」と言ってみるが局長の表情は「?」。
「お、大きな哺乳類の魚です!」
というと、「ああ、バレーヌ(baleine)ね!」
納得してくれたようです。
その先もしばし会話が続いたあと、私の中でかなりの恐怖が生じます。
”まさか、片方はクジラだとおもっていて、片方は他の魚の話をしていたら・・・”
そこで勇気を出して「すみません、ちょっと辞書で確認させていただけますでしょうか。」と会議の最中にもかかわらず、辞書をとりあげて確認。ほっとして先を続けました。
「ほら、大丈夫だったでしょ。ただの挨拶だから。」
という客人の横で、ぼろ雑巾のようになりながら、私はこのクジラという言葉は一生忘れないだろうと思いました。
なぜこのことを思い出したかというと、今回の話題がバイリンガリズムのメカニズムについてだったからです。先日のバイリンガリズムでは、バイリンガルの種類についてお伝えしましたが、今回はバイリンガリルがどうやって複数の言語を操るのかを研究したお話について。片方の言語でわかっていて、他の言語では語彙として入っていない情報がある・・・こういうシチュエーションを、研究者はどうやって調査したのか。
カミンズ(James (Jim) Patrick Cummins: 1946年 アイルランドのダブリン生)は現在もトロント大学オンタリオ教育研究所の教授です。第二言語として英語を学ぶ学習者の言語発達・リテラシー発達の研究に取り組んおり、バイリンガリズムにおける認知機能や学力について、1979年に、伝達言語能力(Basic Interpersonal Communicative Skills: BICS)と学力言語能力(Cognitive Academic Language Proficiency: CALP)という二つの能力を提唱しました。
https://www.oise.utoronto.ca/ctl/Faculty_Profiles/1464/James_Cummins.html
まずは彼が提示した、二つのバイリンガルのモデル、
分離基底言語能力モデル(Separate Underlying Proficiency Model: SUP)
と共有基底言語能力モデル(Common Underlying Proficiency Model: CUP)という二つのモデルを見ていきたいと思います。
分離基底言語能力モデル(SUP)
(分離深層能力モデルとも言われるときもあります。)
1920年代から 1960 年代までは、 欧米を中心に バイリンガルは知恵遅れ、学業不振、情緒不安定などと結びつけて考えられており、バイリンガル教育は否定的に考えられていたそうです。バイリンガルの頭の中には、第一言語(L1)の風船と第二言語(L2)の風船があるように考えられていました。
例えばアメリカの移民の子供の場合、母語と英語は切り離されているため、母語を通して学習された内容や技能は英語で学習された内容に転移されず、また英語を通して得た知識も母語には反映されないと思われていました。二つのことばの同時習得は子どもの学習能力を二分するから思考力も語学力も弱ってしまう・・、こうした考え方をカミンズは分離基底言語能力モデルと呼びました。
しかし、その後、フレンチ・イマージョン・プログラムなどの実証により、バイリンガルでも認知的に有利な点が多く指摘され始めます。早期の外国語教育の導入や学習者の母語と外国語を併せて学習するほうが、モノリンガル教育より優れているという事例が報告されるようになりました。
このような分離基底言語能力モデルに対してカミンズが提唱したのが、共有基底言語能力モデル(Common Underlying Proficiency Model: CUP)(共有深層能力モデルともいいます)でした。このモデルが分離基底言語能力モデル(SUP)と違うのは、母語(L1)で学んだ内容や獲得した能力が、もう一つの言語(L2)に転移する、という点です。カミンズは第一言語の運用能力と第二言語の運用能力は、表面的には流暢さや語彙数が違うので別々の言語運用能力に見えても、実は氷山の水面上に見える2つの頂にすぎず、水面下では一体であると考えました。
カミンズは、バイリンガル教育の評価、年少者の移民時の年齢と第二言語習得の関係、家庭における2言語使用の子供の成績などについて研究が行い、共通基底言語能力モデルに基づく相互依存の仮説(発展的相互依存仮説:Developmental Interdependence Hypothesis)を提唱しました。母語の基礎 で第二の言語が育ち、また第二の言語を持つということが、言語そのものに対する メタ 認識を高めるというものです。
また、カミンズは子供におけるバイリンガリズムには、3つの段階が存在するとしバイリンガルを3つの段階に分類しました。
3層目:均衡バイリンガル
2層目;弱い均衡バイリンガル(ドミナント・バイリンガル)
3層目:限定的バイリンガル(ダブル・リミテッド・バイリンガル)
これを敷居理論(Thresholds Theory)と呼びました。
その後、スウェーデンに住むフィンランド語を第一言語とする移民の子どもを対象とした研究で、スウェーデン語とフィンランド語の両方で日常会話の流暢さに問題がないのに対して、学校の教科学習などの場面においては困難を来すという現象が報告されると、カミンズはこの現象を説明するために伝達言語能力(Basic Interpersonal Communicative Skills: BICS)と学力言語能力(Cognitive Academic Language Proficiency: CALP)という2つの能力を分けて説明しました。
伝達言語能力(Basic Interpersonal Communicative Skills: BICS)
例えば、スポーツや、買い物、友達との日常会話のときに必要な言語の能力です。
。
生活場面で必要とされる言語能力で、子供たちは友人との会話や買い物に必要な表現など、日常生活に必要な語彙や流暢さを早い段階で習得します。
もう一つの能力は教科の学習場面で必要とされる言語能力です。
学力言語能力(Cognitive Academic Language Proficiency: CALP)
友人との会話はできても、また流暢に日常会話ができても、教科の学習に参加するためには、分析・統合・類推などの認知処理を支える言語能力が必要となります。
彼はこの二つの能力を下のような4つにわけて示しました。
高コンテクスト・コミュニケーションとは、子供が活用できるコンテクストの助けが高い場合のコミュニケーションのことで、ボディランゲージや物をさしたりして、メッセージのやりとりを理解している場合です。
低コンテクストコミュニケーションとは、子供が活用できるコンテクストがなく、文中の単語のみが意味を伝える場合のコミュニケーションのことで、本などを読んだり、説明を聞いたり、言語形式だけで内容を理解しなければならない場合です。
このように、カミンズが言語の能力をBICSとCALPに分けたことは、その後のバイリンガル教育・政策に大きな影響を与えました。それまでは、移民の子供たちの英語能力をどうやったら早く向上させられるのか、という点に焦点が当てられていましたが、カミンズは移民の子供たちの母語の重要性に注目しました。母語教育が英語の習得を遅らせるのでは?、家庭での英語以外での会話が学習を遅らせるのでは?と心配する保護者や教師に、母語教育が英語の向上にも効果があることを示したのです。また、日常会話がスムーズだから学習もできるわけではないこと、アカデミックな研究ができる人に会話が苦手な人がいることもモデルにより説明することができました。
BICSとCALPの例です。
伝達言語能力
(Basic Interpersonal Communicative Skills: BICS) |
学力言語能力
(Cognitive Academic Language Proficiency: CALP) |
口頭での会話に使われる社会的、会話的な言語能力です。社会言語ともいわれ、様々な合図がリスナーに提供される高コンテクストコミュニケーションに使われます。どんな文化的背景のある子でも2年程度で習得できます。中でも英語の学習者は: ジェスチャーなどの非言語的コミュニケーションを理解できるようになります。 相手のリアクションを読み取れるようになります。 イントネーションや協調などの音声による合図を理解できるようになります。 写真や具体物など実物を見て読みとれるようになります。 |
学校の授業など、低コンテクストコミュニケーションで使われる言語。英語の学習者には授業を理解するのに5年から7年習得にかかります。
非言語的な要素がありません |
通訳という職業は、冒頭の「くじら」にフランス語の「baleine」や英語の「whale」を張り付けていくように、片方の言葉でわかっている概念に、辞書などの助けを得ながら、別の言語の語彙をラベル付けしていくような仕事です。しかし、通訳が扱うコミュニケーションはほとんどが低コンテクストコミュニケーションで認知的負担も重いもの(CALPの範囲)ばかり。両方の言語が表面的にうまいからといって誰でも通訳ができるわけではなさそうです。
また、日本で働く外国人が増えている今、今後母語が日本語ではない子供も増える可能性があります。「ああ、あの話だ、家で使う言葉ではわかる。でも日本語でなんていうんだろう・・知っているけれどテストでは答えられない・・」と悩む子供も増えるかもしれません。もし先生から「あんなに日本語がうまいんだから授業もわかっているはずでしょう。」と判断されて放置されてしまうと、学業から取り残されてしまう悲劇も起こりそうだと思いました。(鍋)
参考:第二言語習得論 アルク
言語的マイノリティ児童の学習言語(英語・継承語)を育てるカナダの公立小学校の実態
鈴木崇夫
Cumminsの相互依存モデル、BICSとCALPについて 旅する応用言語学
Four differences between BICS and CALP (and why) CLIL media
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