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<めじろ奇譚>ピエ・ノワールとフランス語の辞書

2021年7月29日

弊社にて力を入れている言語のひとつがフランス語で、フランス語圏アフリカの国際協力案件の翻訳や通訳派遣等のご依頼を多く頂戴しております。今回、「フランス語とアフリカ」についてのご紹介として受け取ったバトンのテーマは「ピエ・ノワール」です。

「ピエ・ノワール(pied-noir)」とは、直訳すると「黒い足」で、特に人の出自の言及に用いられる言葉とされています。広義ではフランス領北アフリカからの引揚者を指し、主にアルジェリア出身のフランス人を意味しているようですが、厳密な対象に関しては多くの議論が行われているそうです。

この言葉の起源は諸説あり、アルジェリアに上陸したフランス軍の靴が黒かったという説が由来として広く理解されているそうです。しかし、先住民はフランス軍や入植者を示す独自の言葉を持ち、フランス語の言葉をあえて使う必要がない点から、この説を否定する研究者もいるため、起源は定かではないようです。他にも、ワイン醸造の葡萄を踏む過程で黒く染まった足の象徴だとする説や、アメリカのネイティブアメリカン「ブラックフィート」の名をとり若者が自ら使用したという説もあるそうです。

ピエ・ノワールの著名人といえば、コロナ禍で注目を浴びた小説「ペスト」の作者アルベール・カミュ(Albert Camus)や、世界的デザイナーのイヴ・サン=ローラン(Yves Saint-Laurent)は日本でも有名です。

翻訳と関連し、特に注目したのがポール・ロベール(Paul Robert)という人物です。フランス語の二大辞書といえば、ラルース(Larousse)とロベール(Robert)ですが、後者を編み出したのがまさにこの辞書学者なのです。
ポール・ロベールは1910年にアルジェリアのオルレアンヴィルで生まれ、高校と大学の学部時代をアルジェで過ごし、1934年からパリで法学を修めます。戦争の勃発により兵士として動員された経験もあります。1945年に博士号を取得しますが、博士論文執筆時に納得のいくフランス語の辞書がないことから、新しい辞書の制作を志します。1952年出版の最初の分冊がアカデミー・フランセーズから表彰を受け、その後は1964年に大辞典『グラン・ロベール』、1967年には小辞典『プチ・ロベール』が完成、フランス語辞書として台頭し現在に至ります。

私どもが日々参照する辞書にもピエ・ノワールが関連しているというご紹介でした。
フランス語の翻訳や通訳等に関してもぜひお気軽にお問い合わせください。
(フランス語担当)

【参考文献】
・大嶋えり子, 世界引揚者列伝Vol.1 ピエ・ノワール列伝 人物で知るフランス領北アフリカの引揚者たちの歴史, 合同会社パブリブ, 2018.
・足立綾, ラパトリエとピエ・ノワール ―<アルジェリアのフランス人>の仏本国への「帰還」―, 『文化人類学』80/4 2016, p.569-591.
(online), https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjcanth/80/4/80_569/_pdf/-char/ja, (参照2021-06-30)
・Wikipedia, https://fr.wikipedia.org/wiki/Pieds-noirs#D%C3%A9finitions_de_%C2%AB_pied-noir_%C2%BB, (閲覧日2021-06-30),
・Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB, (閲覧日2021-06-30),

(フランス語通訳 旅ブログ)マダガスカル④~マダガスカル風景~

2020年12月23日

皆さんいかがお過ごしでしょうか。今年はコロナで大変でした。
しかしながら12月になるとさすがの師走。忙しくなってきました。
気づくとブログ掲載の数も少なくなっていて、日々の過ぎるスピードを感じます。
バタバタしているところへ、フランス語通訳の橋爪さんより再びマダガスカルの素敵な写真が届きました。
広がる田園風景や、お米が主食というところは、異国なのにどこか郷愁を感じます。(鍋)

************************

またマダガスカルの風景を送ります。
自分にとって忘れがたい風景ばかりです。

■まずパンガランヌ運河、

パンガランヌ運河 (1)

堂々とした川のように見えますが、フランスが、マダガスカルを植民地に併合した直後から、この運河の建設は、フランス人主導で始まりました。

■運河を行き交う人々

運河を行きかう人々

1897年のフランスによる植民地併合ですが、その頃、タマタブという大きな港から、マダガスカルの南方へ降りる道が無く、また海岸沿いにタマタブから南方方面へ船で下るには、大きな危険が伴いました。
潮流の乱れが激しく、また暗礁も多くあり、波浪が大きく、沿岸に沿って航行するのも相当な危険が伴いました。

そこで、フランス植民地の将軍が考え付いたのが、現に存在する多くの湖沼地帯や潟を貫き、南方方面へ下る運河を作ることでした。

■地図

パラガランヌ運河
タマタブからファラファンガーナまでの700km.
壮大なるインフラ建設でした。
マダガスカル支配のための仏軍移動のことも頭にあったでしょう。

現在では、700kmは航行できませんが、かなりの部分で修復を行い、運河近隣の人たちの足となり、手漕ぎのボート(ピローグ)や船外機付きの小型船で行き来しています。
また観光目的にもなり、ツーリストが小型船で行き交う姿も見受けられます。

■運河近くのホテルにて

ホテルにて

■運河近くのレストランにて(タマタブ近郊)
(この写真は誰が撮ったの?そういうことは不問に付すことにしましょう。)

タマタブ近郊にて

■お米の国 マダガスカル

タマタブ近くの水田にて

水田風景です。タマタブの近郊です。

■水田風景です。

水田

同じくタマタブ近くです。

水田は、マダガスカルはどこでも見られます。
1200mの高地の首都アンタナナリボにもたくさんあります。
苗代を作り、きちっと田植えをして、稲刈りも行います。

ただ、相当な田舎では、今でも、田植えをせず、直播きを行い、刈り入れは、穂積(ほづみ)を行っている農村もあります。
また水田耕作ではないオカボ(陸稲)を栽培していて、これも穂積を行っている地域もあります。

なにしろ、マダガスカル人は、お米さえしっかり食べられれば、幸せといった民族です。
一人年間平均100kg以上のお米を食べています。

(僕なんか、現在の日本で、2kgのパックをスーパーで買ってくると、
1か月間も食べていますから、現在の日本人はお米をあまり食べなくなったのでしょうね。)

■フォールドーファンの宿屋にて

小石取り

お米を炊く前に、お米の中にある小石を取り除いているところです。

なにしろ、マダガスカルの農村では、お米のモミを路上で天日干しにします。
其の時にゴミや小石がモミに入り込んでしまいます。
なので、お米を炊く前には、必ず、小石取りを行います。

小石取りをした後は、お米は研ぎません。
小石取りのあとには、すぐ煮え立ったお湯の中にこのお米を入れて炊き始めます。
45分後には、炊き上がります。

■フォールドーファンの現場のワーカー用食堂です。

現場の食堂にて

この洗面器みたいな大きな器に山盛りのご飯です。

肉と野菜を煮込んだものを汁と一緒にご飯にかけます。
これだけです。
いや、現地の人々にとって、これは結構な贅沢な食べ物です。

(現地の農村の家庭では、
野菜(キャッサバ、サツマイモ等の葉っぱ)に塩をいれて煮込み、それをご飯にかけて食べます。
肉や魚はご飯の中には見当たらないのがごく普通です。)

■奥の女性が盛っているご飯には、肉が見えるでしょう。

肉と野菜のスープをかける

ご飯の量については、相当な量のように見受けられますが、実際、食べてみると、日本のご飯の方が、粘りとコシがあり、お腹にはこたえます。
マダガスカルのご飯は、ふわふわしていて、それほどお腹にもたれません。

■ 最後は、現地のワーカーさんたちのいる食堂風景です。

現地ワーカー食事

彼らと一緒に働いた3年間が懐かしく思い出されます。
本当に働き者の人たちばかりでした。

(橋爪)

(フランス語通訳 旅ブログ)マダガスカル③~2009年のマダガスカル政治危機~

2020年11月27日

フランス語通訳の橋爪さんよりマダガスカルで体験した大統領選挙にまつわるお話です。どこの国も大統領選挙は大変なんだと改めて感じました。(鍋)


僕がマダガスカルに滞在していたのは、前回、書いたように、2006年12月から2010年3月まででした。

その間、特に2009年3月には、首都アンタナナリボで流血の惨事が起きました。
僕の滞在していたマダガスカル南端のフォールドーファンの地まで波及し、現地の若ものたちを中心に、フォールドーファンの市役所広場に集まり、
首都の流血の犠牲者、死者28名を弔うために、デモ行進をし、プラカードを掲げ、若者たちは、「これは国葬に値する」とまで言い放っていました。
ここに至る経緯を今回は説明します。

ちょうど僕がマダガスカルに着いた2006年12月、現職大統領マルク ラヴァロマナナ(Marc Ravaromanana)は、5年間の任期を終えたところで、第二回目の大統領職に立候補していました。
この12月大統領選挙において再選をはたし、向こう5年間の再度の大統領任期を始めたばかりでした。
2007年になると、国民投票により憲法改正に着手しました。
大統領権限の大幅な強化を目的としていました。

その頃のフォールドーファンの人たちの噂を聞くと、
「大統領府が中心権力となり、各省庁は、大統領府の下請け。つまり大統領府が命令したことを、各省庁は実行するだけの機関。」
というものでした。

まあ今、噂話を書いたわけですが、本来は下記のようなものでした。
≪ 非常事態においては、大統領令を発することができる。≫
(大統領令 Ordonnance présidentielle、これは非常事態の時には、三権分立を越えて、大統領は命令を発することができます。橋爪註)

≪またフランス語、マダガスカル語に加えて、第三の言語として英語を採用する≫
≪行政区域を変更して、6か所のProvinces(広域州)という制度を止めて、22か所のRégions(地方)を創設する。≫
≪マダガスカル国家のLaïc(非宗教性)を廃止する。≫
という文言が正式に決まりました。

2008年になると、野党勢力が大統領政権を批判し始めました。
野党勢力の中心はアンドリー ラジェエリーナ(Andry Rajoerina)で、当時アンタナナリボの市長をしていました。
大統領は、アンドリー ラジェエリーナに対し、次第に締め付けを厳しくし、首都の市長権限を奪い始めました。

2008年11月 国際紙のFinancial Timesが発表しました。
「2008年7月に、マダガスカル政府は、韓国の大宇グループに対し、1,300,000へクタールの耕地を99か年の期限で譲渡する。」
というものでした。

当然、世は騒然となりました。
マダガスカルの各メディアは炎上し、ネット上でも新聞でも大統領政府の「国家を売る行為」と非難しました。
それに続いて、大統領のいろいろなゴシップ、汚職話らが持ち上がり、マダガスカル全土は大統領に対する非難一色となり、
またアンドリー ラジョエリーナを首班とする野党勢力は、一気に大統領政府を倒そうとする気配にまで進展しました。

噂では、この1,300,000ヘクタールの耕地は、トウモロコシ畑にするとのことで、大宇グループはそれをバイオ燃料にするという話でした。
しかしこの面積は、マダガスカルにとっては、国家全体の農耕地の半分近くに相当するとのことでした。

アンタナナリボ市長アンドリー ラジョエリーナは、テレビ局(VIVA)を経営していましたが、大統領により閉鎖となりました。
2月7日 首都は騒然となり、激しいデモが始まり、憤慨した野党勢力とその他もろもろの人たちは、大統領宮殿(Palais d’Etat d’Ambohitsorohitra)へと押しかけ、
ここで大統領親衛隊が、押し掛けた群衆に向かって発砲しました。
28名の死者と212名の負傷者がでました。これが流血の惨事の経緯です。

3月16日 マダガスカル軍がアンドリー ラジョエリーナへの支持を表明し、ここにおいて現職大統領マルク ラヴァロマナナは大統領職を辞職し、
南アフリカへと亡命しました。

マダガスカル軍が一時的に権力をゆだねられ、マダガスカル軍はアンドリー ラジョエリーナへ権力を移譲しました。
ここにおいてアンドリー ラジョエリーナは、事実上のマダガスカル国家の長となりました。
(Président de la Haute autorité de la Transition et
Chef de l’Etat de facto)
(移行期最高委員会委員長)

事実上の国家元首です。
2014年この職を離れ、正式な大統領職には立候補しませんでした。
2018年8月 彼は正式に大統領選に立候補します。
競争候補は、旧大統領のマルク ラヴァロマナナでした。

第1回目投票では、
アンドリー ラジョエリーナ 39,2%
マルク ラヴァロマナナ 35,4%

(フランス式の選挙では、第一回目で絶対多数50%以上を取得すれば、選挙はこれで終わりです。
絶対多数を取れなかった場合、第二回目の投票を行います。マダガスカルはフランス式の選挙を行っています。
これはマダガスカル憲法でも決まっています。)

第2回目投票では
アンドリー ラジョエリーナ 55,7%
の得票で選挙に勝利しました。
2019年1月8日マダガスカル憲法院はアンドリー ラジョエリーナを正式な勝利者と宣言し、マルク ラヴァロマナナは翌日敗北を正式に認めました。
そして現在までアンドリー ラジョエリーナが続けているわけです。

このような政治危機を現地マダガスカルにおいて目撃できたこと、また多くの若者たちの政権批判を聞くことができたこと、
これは僕にとってまたとない経験でした。

アンドリー ラジョエリーナは若者たちの絶大な信頼を集めていました。
彼の顔や姿からして、なにやら汚職やゴシップなどとは全く関係ない人物と、マダガスカルの若者たちや民衆は信頼を寄せていました。

彼が大統領になったのは、自然の勢いというものでしょう。
これからのマダガスカルと彼の手腕に期待するところです。

橋爪 雅彦

(フランス語通訳 旅ブログ)マダガスカル②

2020年11月26日

フランス語通訳の橋爪さんよりマダガスカルについてさらに写真と記事が届きました。私がマダガスカルに行ったときはハネムーンの日本人もチラホラいましたが、確かに美しい国ですね。(鍋)


それにつけても僕のマダガスカルの滞在は、やはりいい日が続きました。

首都アンタナナリボ(タナ)のジャカランダをよく思い出します。
マダガスカル南端のフォールドーファンからタナへ出張があるたび、毎年10月から11月はこの花の下を散歩しました。

上はマダガスカルの位置図です。
首都アンタナナリボ(タナとも言います)は海抜1200mの高さにある都市です。

上は首都の中のアノジー湖の位置です。

アノジー湖.です。向こう正面にジャカランダ(Jacaranda)の並木が見えます。

 

 

 

アノジー湖の風景です。

それほど大きな湖ではなく、縦横500m×500mほどの池といった方がいいでしょう。

写真の右手、木の陰に少々隠れていますが、これが湖の中央にある小さな島の中の「黒い天使像」(Ange noir)です。
1927年にフランス人によって建てられたものです。
1914-1918第一次世界大戦で亡くなられたマダガスカル出身兵士を記念して建てられたものです。
(第一次大戦には、アフリカ諸国から宗主国フランスのために、 多くの現地の人たちが応召され、戦い、亡くなりました。)

王妃の別荘
今この像が立っている場所は、19世紀までは、マダガスカルを支配するメリナ王朝の王妃が別荘を建てていました。
1896年 フランス軍はアンタナナリボへ入り、この王妃の宮殿に向かって大砲を討ち、メリナ王国は降伏、崩壊しました。
フランスの支配はこの1896年から始まります。ノルウエイの宣教師団が撮ったという珍しい写真なので、
fr.wipedia から掲載しておきます。 1880年ごろというとまだメリナ王国が存続していた時代です。

 

上の2枚は、僕がタナ出張のおり、いつも宿泊していたホテルの坂道にあるジャカランダです。
ホテルは「ホテル シャンガイ(上海)」と云います。

タナ市内の風景です。かなり人通りの多い都会です。

橋爪 雅彦

(フランス語通訳 旅ブログ)マダガスカル

2020年11月17日

先日のジブチ、エチオピアに続き、アフリカ南方の島国、マダガスカルについてフランス語通訳の橋爪さんより写真と記事が届きました。

私も短い期間、マダガスカルに行ったことがありますが、温暖な気候に田んぼがあったり、現地の方がどこかアジアっぽかったりして、初めてでも懐かしい印象を持てる国でした。是非また行ってみたい国の一つです。(鍋)


本当は、僕が毎日朝夕、いや昼時も眺めている目の前の榛名山について、書こうかと準備を進めていましたが、マダガスカルの昔の写真がごそごそ出てきて、猿たちの思い出がのさばり始め、マダガスカルの猿を載せることにしました。

■ 最初はマダガスカル共和国の位置図です。

マダガスカルの最南端の港町、フォールドーファンです。
2006年12月―2010年3月までの3年3か月間をここで暮らしました。

僕自身、海外生活で、一番長く暮らしたのは、アルジェリアの13年間です。
そして次がフランスのパリ、丁度丸9年間滞在しました。そして次の長期滞在が、このマダガスカル フォールドーファンです。

日本のゼネコンが、マダガスカルから港建設の案件を受注し、その総務・法務・通関・ロジスティック等の担当者として、
今、フランシールの代表をしている鍋田さんの斡旋で、日本から11,000km離れた南半球の島へと赴任しました。

南端のフォールドーファンに滞在して最初に驚いたこと、それは、太陽が東から上り、南へは行かず、北をめぐって、西に没することでした。
これは、北半球育ちの僕には、何としても解せない出来事でした。

しかし気候はよく、一年を通して快適で、季節の移り変わりが無く、一年中、花が咲いている島国でした。

滞在3年目には、さすがに、たまには雪も降ってほしい、山々は、紅葉か黄葉になって、色づいてほしい、厳しい寒さに肌をさらしてみたい等々、人間って、勝手なもので、一年中陽気で温暖で、季節の無い国にいると、ついつい贅沢な無いものねだりが出てきてしまいます。

■ フォールドーファンの風景

正面の山脈のふもとに、ナハンポアーナ村があり、そこが野生動物の自然保護区になっています。

■ ナハンポアーナ保護区(Réserve de Nahanpoana)への入り口

ここで入場料を払ってから自然保護区へ入ります。

■ 保護区の中は、おサルさんの天国です。

茶色いサルたちが寄ってきます。人を怖がりもせず、エサをねだります。
猿の名称は詳しくは知りませんけれど、クビワキツネザル(チャイロキツネザル)のようです。

■ 同僚の肩にとまるワオキツネザル
尻尾が縞模様の猿が有名な横跳びをするワオキツネザルです。

■クビワキツネザル(チャイロキツネザル)
一緒に行った現地クラークと戯れています。

■ベローシファカ

なんだかかわいいですね。

■みなおサルさんはバナナが大好物です。

バナナを持っている人を見かけると、飛びついてきます。

■ 日本人の同僚も飛びつかれそうです。

■ 僕はバナナを持っていないので、安心してみていられます(↓)。

■ 猿たちは決して人間の手を傷つけません。

旅人の木
この木は、マダガスカルの有名な樹で、
葉の部分に水を蓄えていることで旅人を救うということから、
「旅人の木」と命名されているようです。

■ おとなしそうなワオキツネザル。

3年3か月間のこの地での滞在中、何度なく、この保護区を訪ねました。南国の太陽の中で、キラキラ輝く自然の中で、そして楽しかった自分と同僚たちとおサルさんたちを思い出します。
橋爪 雅彦

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