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仏語通訳旅ブログを寄稿してくださっているフランス語の通訳、橋爪氏がずっと心の内に秘めていた詩への情熱を綴ってくれました。フィッツジェラルド、芥川龍之介、 佐藤春夫や、中国は唐代の詩人高適など、今度はアフリカへの旅ではなく、詩で世界を飛び回ります。

<ある通訳の日誌>詩の世界 詩のこころ 6

2021年11月26日

以前から旅ブログを送ってくれているフランス語通訳の橋爪さんが、大好きだという詩の世界について寄稿してくださいました。今回は第6回。ルバイヤートは世界史などでも習う、11世紀ペルシア(イラン)の詩人ウマル・ハイヤームの四行詩集の題名です。19世紀イギリスの詩人、エドワード・フィッツジェラルド(Edward FitzGerald)による英語訳で世界中に知られるようになりました。日本語への翻訳は、明治時代から多くの訳者によって翻訳されてきました。森亮は1941年(昭和16年)フィッツジェラルドの英訳から日本語へ訳しています。戦後は、小川亮作がペルシャ語原典から1949年(昭和24年)岩波より出版し、その他多くの訳者たちもペルシャ語原典あるいはフィッツジェラルドの英訳から翻訳をしてきました。


詩の世界 詩のこころ 6
橋爪 雅彦
1
フィッツジェラルド
森(もり) 亮(りょう)訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩

第一回
第二回
第三回
第四回
第五回
第六回

■第二版で消えた詩
フィッツジェラルドは1859年に初版75首を出版しました。そして1867年のフランス人ニコラのペルシャ語原典からの仏訳が出版された後、フィッツジェラルドは1868年第二版110首を発表しました。

初版から第二版へ移ったとき、どうしたわけか、初版の第37歌が無くなっています。この37歌は、最初にお話しした亀井勝一郎の「恋愛論」の中にも引用されていて、私が常日頃愛誦する最も好きな歌の一つです。

第三十七歌(森 亮訳)
ああ、さかずき満たせ。かこつともかこつとも
甲斐なくて時は我等が足もとをすべりゆくなり。
きし昨日を、又いまだ生れぬ明日を
憂ふをやめよ、今日の日の楽しくあらば。

ああ さかずきを満たしなさい。嘆いたところで無駄なんです。
時間は私たちの足元を滑るように去ってゆきます。
過ぎ去った過去のことなど、そしてまだ来てもいない明日のことなど、
どうでもいいじゃあないですか、今日という日が楽しければ。

―Edward Fitzgerald  ―XXXVII―
(フィッツジェラルド第三十七歌)

Ah, fill the Cup; -what boots it to repeat
How Time is slipping underneath our Foot:
Unborn TO-MORROW and dead YESTERDAY
Why fret about them if TO-DAY be sweet!

ニコラ版にはどこを探しても上記のような歌はありません。マッカシー版にもありません。
戦後、多くの専門家がペルシャ語原典から和訳するようになりました。小川亮作、陳瞬臣、岡田恵美子のペルシャ語原典からの和訳を参照しましたが、上記の詩は見当たりません。

この三十七歌は、言うなれば、フィッツジェラルドの創作だったのでしょう。オーマー・カイヤムの本質をとらえた素晴らしい詩ですが、いかんせん、原典には無いものと言ってもいいでしょう。だから、原典から直接訳した仏人ニコルを意識して、第二版ではこの三十七歌を削除することになったのでしょう。惜しいことです。

しかしカイヤムのエッセンスが息づいています。美女を片手に、もう一方の手でワイングラスを傾け、今日という一日こそ、もう去って再びは現れてこない一日。この一日を愛さないで何の人生でしょう!
While you live, Drink! -for once dead you never shall return. (第三十四歌の一節)

初版三十七歌を矢野峰人という訳者は次のように訳しています。
第三十七歌(矢野 峰人訳)

さかづき満たせ、ゆく駒の
はやきうらむも甲斐なけむ、
まだ見ぬ明日も過ぎし日も
今日だに善くば何かせむ。(矢野 峰人「ルバイヤート集成」より)

(矢野 峰人 国書刊行会「ルバイヤート集成」表紙より)

フィッツジェラルドの初版全75首をすべて七五調の完璧な文語定型詩で訳出しているのには敬服します。「ゆく駒」とは、馬に例えていますが、過ぎ去り行く「月日」のことです。月日は飛び去るように去ってゆきます。「疾(はや)きうらむ」も甲斐なきことです。今日さえよければ、他のことはどうでもいいのです。

参考までにフランス人Charles Grolleauの訳を掲げます。
XXXVII
Ah!remplis la Coupe. . .Que sert de répéter
Que le temps glisse sous nos pieds :
DEMAIN n’est pas né, HIER est mort,
Pourquoi se tourmenter à leur sujet si l’AUJOURD’HUI est doux!

Que sert de répéter は若干文語調で、現代の普通の文にすれば、A quoi sert-il de répéterになり、「くどくど嘆いたところで、それが何になる」という意味です。

今日という日は二度と帰りません。この一瞬こそ、人生そのものです。美しき女性も、この一瞬を置いて、いつ愛することができるのでしょう。駿馬よりも早く、月日は去ってゆきます。

■ 大伴旅人 酒を讃むる歌
亀井勝一郎はその「恋愛論」のなかで、オーマー・カイヤムに非常によく似た詩人として、日本の大伴旅人(おおとものたびと)を引き合いに出しています。「旅人(たびと)をしてペルシャの宮殿の水静かな噴水のそばに座せしめたならば、必ずや彼はカイヤムのような思想詩人になっていたかもしれない」。

旅人の歌13首から5種を引用して論じています。その中からひとつ:
今の世にし 楽しくあらば来む世には 虫にも鳥にも吾はなりなむ」(巻3 第348)

(今 生きているこの世が楽しいならば、来世には虫にも鳥にもなっても構わない。)

仏教思想が朝鮮経由で日本へ入り始めたのは、古墳時代です。5世紀から6世紀にかけて、日本へ渡来した朝鮮半島の人びとによってもたらされました。
大伴旅人が生きていた(665年―731年)飛鳥時代から奈良時代、仏教思想は色濃く人々の心の中へ浸透していきました。

当然、旅人の心の中にも仏教の戒律、とくに五戒を意識していたはずで、その五戒の中に酒を飲んではならないとする「不飲酒戒」(ふおんじゅかい)がありました。

因みに仏教でいう五戒とは、「不殺生戒」(ふせっしょうかい)、「不偸盗戒」(ふちゅうとうかい)、「不邪淫戒」(ふじゃいんかい)、「不妄語戒」(ふもうごかい)、そして最後に「不飲酒戒」(ふおんじゅかい)です。

5世紀から6世紀にかけて日本へ入ってきた仏教は、おそらく、かなり原始仏教の名残をとどめ、戒律というものも当時の日本人へ重くのしかかって来たに違いありません。
「不飲酒戒」、酒を飲めば、死後、輪廻転生があることになっていますから、虫や鳥になって生まれ変わってきてしまう、という「脅し」が随分と精神に作用したに相違ありません。

いや、それでも酒を飲む、虫や鳥に生まれ変わっても構わない、と言った気概がこの歌には見てとれます。いや、もっと開き直って、次のようにも歌います。

酒の名を ひじりおふせしいにしえの 大きひじりことよろしさ」(巻3 第339)
(酒の名を聖人と名付けた昔の大聖人がいる。その言葉のなんと適切なことよ。)

日本人も、最初は「不飲酒戒」とその来世の報復を怖がったでしょうが、年代がたつにつれ、戒律は次第に私たち日本人の意識から遠ざかっていきます。

現代の私たち日本人は、この戒律というのがどうもよくわかりません。ですから、日本で仏教と言っても、知人や親族が亡くなれば寺の葬儀に参列し、また寺には祖先の墓があり、祖先の墓参りをしたり、7回忌とか13回忌とか言って、亡くなった人たちの供養をしたりといった程度のことです。したがって、寺とか寺の坊さんは、先祖供養のためにいる存在という程度の認識です。

「不飲酒戒」も私たちにはわかりませんが、「不邪淫戒」はもっとわかりにくいものです。不道徳な性行為をしてはならないという意味の戒律ですが、これが全く私たちには理解できない。なぜか、いったい性行為の何が不道徳なのか。
(私などは、性行為はこころの底から神聖なものだと思っています。そして性行為の絶頂の瞬間、人生の生きている最大の喜びを感じる瞬間でもあります。)

私たちは、坊さんに愛人がいたりしても、昔からちっとも不思議がらない民族です。坊さんが、「般若湯」(はんにゃとう)などと言って、昼間から酒を飲んでいても、一向に不思議がらない民族です。
したがって、仏教の五戒は、日本には根付かなかったのです。第一、私たちは表向き仏教徒でありながら、五戒などという言葉は聞いたことも見たこともないのが普通です。

もうひとつ旅人の歌を挙げておきます。

生けるもの つひにも死ぬるものにあれば 今あるほどは楽しくらな」(巻3 第349)

束の間の人生です。「時」が私たちの足元を滑るように去ってゆきます。それだからこそ、一層の哀惜の念をもって、人生を、酒を、女性を、セックスを愛するのが、本来の人生ではないでしょうか。

小川 亮作の訳からカイヤムの詩を掲げて今日は締めくくります。

ルバイヤート 第87歌 小川 亮作訳
恋する者と酒飲みは地獄に行くと言う、
根も葉もないたわごとにしかすぎぬ。
恋する者や酒飲みが地獄に落ちたら、
天国は人影もなくさびれよう!
―続くー


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2020年11月27日 マダガスカル③~2009年のマダガスカル政治危機
2020年11月26日 マダガスカル②
2020年11月17日 マダガスカル
2020年10月27日エチオピア
2020年10月15日 ジブチ②
2020年10月9日 ジブチ
2020年 8月25日 フランスのミヨー大橋
2020年 8月11日 碓氷峠とアプト式鉄道
2020年 6月8日 月夜野にて
2018年 6月8日 童謡「ふるさと」の故郷
2018年 4月18日 セネガル☆アフリカ再生記念碑
2018年 4月9日 セネガル☆ゴレ島にて
2016年 5月12日 ギニアだより☆VOL.3

 

<ある通訳の日誌>詩の世界 詩のこころ 5

2021年10月16日

詩の世界 詩のこころ
橋爪 雅彦
1
フィッツジェラルド
もり りょう 訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩

第一回
第二回
第三回
第四回

―第五回ー

■フィツジェラルドと友人カウエル(Cowell)
フィッツジェラルドには十七歳年下のカウエル(Edward Byles Cowell)という友人がいました。彼との交わりは、1844年ごろ(カウエル18歳)始まったといわれています。1850年ごろからフィッツジェラルドはこの友人からスペイン語の指導を受け、その後1852年からは彼よりペルシャ語の指導を受けました。

この友人カウエルが、オックスフォード大学のボドレー図書館にあったオーマー・カイヤムの四行詩「ルバイヤート」の古写本を発見、それを転写し、フィッツジェラルドに贈呈しました。その古写本に収録されていたのは158首、その中からフィッツジェラルドは75首を選んで翻訳しました。75首の初版は1859年に自費出版されました。

今、こうして私が論じているのは、この初版本の75首を森 亮が1941年に和訳したものです。

フィッツジェラルドはその後も改訂を続けました。
1859年 初版 75首
1868年 第二版 110首
1872年 第三版 101首
1879年 第四版 101首

1883年6月 74歳と数カ月の寿命を終えました。
彼の死後、第五版が出版されました。彼のルバイヤートを論じる人たちは、初版から第4版までを頻繁にとりあげ、第五版はほとんど取り上げません。
そしてよく翻訳されるのは、初版、第二版、第四版です。第三版は第四版とよく似通っているため翻訳者たちは第四版を選び、第三版はあまり翻訳されません。
第五版については、まれにしか翻訳されませんが、日本では、矢野 峰人が五版101首の全訳をしています。

■フランス人J.B.Nicolasの出現
1867年 インドに領事として滞在していたフランス人ニコラ(J. B. Nicolas)がフランスへ帰国し、オーマー・カイヤムの詩をフランス語・ペルシャ語原典双方の対訳で出版します。
フィッツジェラルドがカイヤムを訳して以来、彼以外の人が試みた初めての訳です。テヘラン版テキストを使い、原詩は下記の右ページにみられるようにおそらく四行詩と思われますが、ニコラは散文詩の形で全464首を仏訳しています。


参考までに第448歌のページを載せます。
左ページがフランス語訳、右手ページがペルシャ語原文です。(ペルシャ語はアラブ文字を使って表記されています。ページの下段には、ニコラの注釈がフランス語で書かれています。)
(LES QUATRAINS DE KHÈYAM Notes du Mont Royal. )より

フィッツジェラルドが友人カウエルより寄贈されたボドレー図書館蔵のウズレー写本が全158首でしたから、このニコラが訳したテヘラン本は相当な数と云わねばなりません。

さきほどのフィッツジェラルドの初版第十一歌は、前回引用したマッカシー版第449歌によく似ていますが、ニコラが訳したテヘラン本では第413歌と第448歌にほぼ相当します。
ほぼ相当という意味は、似てはいるが完全な一致ではないという意味です。

フィッツジェラルドは、自分の感性で、ある語は削り、ある語は活かし、あるいは二つの詩を融合したりで、全体の意味合いも多少変わってきていますが、カイヤムの本質は崩さないというスタンスでの訳業です。
私自身、ペルシャ語は分かりませんが、多くの専門家の言葉を借りれば、ニコラはペルシャ語原詩に忠実に訳していると云われています。

J. B. Nicolas (413歌)
Ce que je demande c’est un flacon de vin en rubis, une œuvre de poésie, un instant de répit dans la vie et la moitié d’un pain. Si avec cela je pouvais, ami, demeurer près de toi dans quelque lieu en ruine, ce serait un bonheur préférable à celui d’un sultan dans son royaume.
(LES QUATRAINS DE KHÈYAM Notes du Mont Royal. www.notesdumontroyal.com)より

私が欲しいものは、ルビー色したワインの瓶、一遍の詩集、人生における休息とパンの半かけら。これらをもってどこか人気のないところで、友よ、あなたのそばに座るなら、それこそ王国における王(サルタン)よりも幸せでしょう。

参考までに、このニコラのフランス語訳413歌を今度はこれを英訳したFREDERICK Baron Corvoの訳を掲げます。

All that I ask is a Flagon of rubious Wine, a lyrick Biblaridion, the Half of a Leaf, and an instant of Rest in Life. If, with these, I might dwell in some Ruin, near thee, o Lover o’ me, my Bliss would be préférable to that of a Sultan in his Kingdom.
(「The Rubaiyat of Umar Khaiyam」Scholar SELECT published by Wentworth Press, an imprint of Creative Media Partners. Support creativemedia.io)より
(上記FREDERICK の英訳のなかで、Biblaridionという言葉に少々戸惑いました。英語でもフランス語でもなく、調べてみると、どうやらギリシャ語系の言葉で、「小さな本」を意味しているようです。lyrick Biblaridionは「小さな抒情詩集」とでも訳すべきなのでしょう。)

J. B. Nicolas (448歌)
Lorsqu’on possède un pain de froment, deux mèns de vin et un gigot de mouton, et qu’on peut aller s’asseoir avec soi une jeune belle aux joues colorées de teint de la tulipe, oh!c’est une jouissance qu’il n’est pas donné à tout sultan de se procurer. (LES QUATRAINS DE KHÈYAM Notes du mont Royal www.notesdumontroyal.comより)

小麦のパンと二マンのぶどう酒と羊のもも肉を持つときは、そしてまたチューリップ色の頬をもつ乙女とともに自らが座る時、ああ、これはいかなる王侯(サルタン)も手に入れることができない喜びだ。
(注:マンはペルシャの重量単位。800グラムから3,000グラムぐらいに相当すると云われている。)

ここでもFREDERICK Baron Corvoの訳を掲げます。

He, who hath a wheaten Loaf, a Dish of Mutton, and two Measures of Wine, can go and rest near some ruin with a youthful Lover whose fair Checks glow with the Tinct of Tulips. Ah, not every Sultan may achieve such Joy! 
(「The Rubaiyat of Umar Khaiyam」 Scholar SELECT published by Wentworth Press, an imprint of Creative Media Partners. Support creativemedia.io)より

英語は詩的な言語ですね。ニコラのフランス語訳に比べると、なんというか、フランス語は人工的で古典的な形式を踏襲していて、理屈っぽい印象ですが、フレデリックのこの英語となると、なにか言語として自然な感じがしてきます。しかもインパクトは強烈です。
Ah, not every Sultan may achieve such Joy!(どんな王侯(サルタン)もこんな喜びは味わえないだろう!)

さてフィッツジェラルドの第十一歌に戻りますと、ニコラの原文に忠実な訳を見れば、小麦も消えていますし、マンという重量の単位も消え、羊のもも肉も消え、チューリップ色した頬も消えています。もちろん最後の王侯(サルタン)も消えています。
フィッツジェラルドは、自分の感性を信頼し、19世紀イギリスの感覚に合致した風に詩を組み立てなおしたに違いありません。そこが翻訳というよりも翻案という所以です。

でもフィッツジェラルドの英訳とニコラの仏訳を比べてみると、あきらかにフィッツジェラルドの訳詩が19世紀末から20世紀にかけて全世界の読者を魅了したことがよくわかります。彼の感性の普遍性がもたらす翻案に全世界の読者は完全な共感を示したと云ってもいいでしょう。

それはたとえば、「羊のもも肉」と言っても、やはり日本でも「おやっ」と思います。
中近東の世界では、最高の御馳走と云われている「羊のもも肉」も、日本では「なんだ、それ」といった感覚で、詩のなかにこの言葉が出てきただけで、詩が台無しになる危険があったといってもいいでしょう。それはヴィクトリア朝時代のイギリスでも同じで、また当時のアメリカやその他のヨーロッパ諸国でも同じだったでしょう。


(羊のもも肉 アラブ世界では最高の美味として絶賛される料理です。この塊は結構大きなもので、ニンジンやサヤインゲン等に覆われていて塊のサイズが見えにくいのですが、右手のナイフのサイズと比べてみればこのもも肉の大きさがわかります。於セネガル国ダカール市のレストランにて)。

戦後 1947年(昭和22年) 小川亮作が「ルバイヤート」のペルシャ語原典からの翻訳を出版しました。今でも岩波文庫に収められており、一般の読者は、この小川亮作の訳詩で、オーマー・カイヤムを知ったに違いありません。フィッツジェラルドの初版第十一歌に近いというよりは、むしろテヘラン版448歌に近いものは次の詩です。

小川亮作訳 ルバイヤート(第98歌)
一壺のあけの酒、一巻の歌さえあれば、
それにただ命をつなぐかてさえあれば、
君とともにたとえ荒屋あばらやに住まおうとも、
心は王侯スルタンの栄華にまさるたのしさ!

■フランス人ニコラ(J. B. Nicolas)に刺激されて
フィッツジェラルドはフランス語も堪能でしたので、すぐにNicolas訳のカイヤムを読んでいます。それに刺激されたのか、フィッツジェラルドは1868年第二版を出版します。

第二版では、先ほど掲げた第十一歌はどのような変化を受けているでしょうか。第二版では、第十二歌になっています。

―Edward Fitzgerald  ―Ⅻ― Second edition
(フィッツジェラルド第十二歌)
Here with a little Bread beneath the Bough,
A Flask of Wine, a Book of Verse ­ and Thou
Beside me singing in the Wilderness ­
Oh, Wilderness were Paradise enow!

第二版110首を全訳した竹友たけとも

藻風そうふうのこの歌の訳を下記に掲げます。
ここにして木の下に、いささかのかて
壺の酒、歌のひと巻 ― またいまし、
あれ野にてかたわらにうたひてあらば、
あなあはれ、荒野あれのこそ楽土ならまし。
(マール社 ルバイヤート 竹友藻風訳)

大きな違いは、第三行目「うたひてあらば」と仮定を表す助詞「ば」を使用し、第四行目の最後尾が「ならまし」と反実仮想を表す助動詞「まし」を使っています。
この「まし」は、言うまでもなく、動詞・助動詞の未然形を受け、現実の事態ではない状況を想定し、これこれの事態が起きたらいいなあと願望する気持ちの表明です。
つまり、この詩は、第一行目、第二行目、第三行目とも仮定となり、第四行目に至って、そうであったら楽土(パラダイス)であろうという想像の中の願望を歌っていることになります。

万葉集の時代、光明皇后の有名な歌を思い起こします。

我が背子と ふたり見ませば いくばくか この降る雪のうれしからまし
(光明皇后 万葉集巻8. 1658)
(あなたと二人でこの降りしきる雪を見ることができたなら、どれほどうれしい気持ちになるでしょう。)

この「ませば」と最後尾の「まし」によって、完全な仮定を意味しています。実際には、二人で見ていないわけです。二人で見たら、どれほど幸せでしょうという願望を歌ったものです。

さて、フィッツジェラルドに戻りますと、第二版第四行目の「were」は、仮定法過去の帰結節としての用法で、「were」はwould beとなります。(矢野峰人著 「近代英詩評釈」昭和10年刊 三省堂を参照)
フィッツジェラルドは第二版から第四版に至るまでこの用法を保持しました。もちろん第五版も同様です。

もちろん第二版の竹友藻風の訳も素晴らしいと思います。だが、こうなってしまうと、直接法現在の初版とは離れてしまい、私自身はどうあっても直接法現在の初版の歌が心底素晴らしいと思っています。

■再度「王国における王様よりも幸せ」
カイヤムにとっては、ワインと詩集と若き美女。
ひるがえって私たちの現実の中では、銘々がそれぞれの「王様よりも幸せ」の世界を持てればいいですね。いや持っている人をたくさん知っています。

私の近所の人で、自転車に乗って山や野にサイクリングに出かけるのが無上の幸せと言っていた人や、休日に河川敷の運動場で草野球をするのが最高の喜びであるとか、あるいはサッカーに興じたりまた見たりするのが無上の喜びであるとか、あるいはまた私の兄の一人は、麻雀に熱中するのが何よりの幸福とか、あるいはまた仕事で疲れた体を引きずりながら帰宅すると、愛犬が尻尾を振って出迎えてくれることが何よりだとか、また友人のひとりで、女性と関係するのが無上の喜びであるとか、あるいは「人生は、酒と女と金だ」と断言してやまない御仁もたくさんいます。

ひとそれぞれに自分の格別な世界を持っているわけです。

先日、ある会合で友人に会いました。聞くと、腎臓を手術したそうで、二つある腎臓のうち、一つを除去したとのこと。彼が言うのには、
「あの好きだった酒がまるで駄目になってね。まったく酒が飲めなくなってしまった。」
そこで私が、
「それじゃあ、女性の方も全く駄目なわけだ。」
彼はうなずいて
「女性も駄目だが、お金の方も稼げなくなってね。」
私は、
「それじゃあ、酒、女性、お金の三拍子が全く駄目とは、これは大変だね。」
彼は、
「それはそうなんだ。だが、いいこともある。鴨長明の方丈記を読んでいてね。方丈記の言葉が身にしみて迫ってくる。昔、学生時代は、「なんだか年取った爺(じじい)が、変な理屈をならべている」と思っていたけれど、いやあ、実に方丈記の言葉も、それに徒然草の吉田兼好の言葉も、今、この年齢で自分のこころに迫って来る。この世を去るまでは、彼らの言葉に耳傾けながら歩んで行きたいね。今や彼らを読むのが楽しみだ。」

これは良い楽しみですね。長い人生ですから、人間も歳をとると、若いころの楽しみ、たとえば、異性とのセックスに気も狂わんばかりに没頭する楽しみとか、あるいは恋の激情のなかで「時間よ止まれ」と叫んで抱擁を繰り返す喜びや、あるいはスポーツにあるいは他の何かに身も心も奪われて楽しみにふけりますが、肉体の衰えとともに、私たち人生の喜びも変遷します。

私自身が自分にも他人にも奨めるのが、古今東西の優れた人たちの書物を読むこと、一言で言うと読書の喜び、これは何にもまして比べ物にならないほどの喜びです。

私たちは、職業生活が長く続きますから、ともすると、職業上の専門文献や資料を詮索し、高度職業社会の知識と技術を身につけるわけですが、これは思いのほか「こころの糧(かて)」にはなりません。

古今東西の名作と云われるものには、私たちの「こころ」を揺さぶる何かがあります。名作とは、おそらく、天上界の神聖と私たち卑俗の世界を結びつけるメディア(媒体)と思われます。

これは若いころから少しずつ親しみ、年老いたころには、充分、古今東西の著作を読みこなし味わうことができなければなりません。

兼好法師は読書の喜びについて、
「ひとり灯のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。」(徒然草 第十三段)と断言しています。

人それぞれがそれなりの格別な世界を持っていないと、せっかくの人生、「一度行ったら、二度と帰らぬ人生」(カイヤム)です。
―続くー

 

<ある通訳の日誌>詩の世界 詩のこころ 4

2021年9月17日

詩の世界 詩のこころ
橋爪 雅彦
1
フィッツジェラルド
森(もり) 亮(りょう)訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩

第一回
第二回
第三回
―第四回ー

4.「一国の王様よりも幸せ」という世界
ルバイヤート第十一歌(森 亮訳)
ここにしての下かげに歌の巻
酒の一壺、かてし足り、かたへにいまし
よきうたを歌ひてあらばものににず、
あら野もすでに楽土かな。

木陰にて詩集を開き、美味しいワインとわずかなパンと、そして貴女あなた
私の脇で、あなたが歌えば、何物にも代えがたく、
ああ、あら野も天国だ。

―Edward Fitzgerald  ―Ⅺ―
(フィッツジェラルド第十一歌)
Here with a Loaf of Bread beneath the Bough,
A Flask of Wine, a Book of Verse ­ and Thou
Beside me singing in the Wilderness ­
And Wilderness is Paradise enow.

これもまた美しい韻律です。Bough、Thou、enowと[au]で脚韻します。名詞を大文字で書くのもやや古風な形です。enowはenoughの古形にあたります。Thouは二人称主格にあたる古語です。

森 亮の文語訳も見事です。中国の漢文訓読調から古事記、日本書紀、そして万葉集、古今和歌集、新古今和歌集などの膨大な古典的教養を自己薬籠中のものにしている彼のような博学な翻訳者に比べると、私などは恥ずかしい限りですが、この詩には私なりの思い入れがあり、あえて私の無学を顧みず訳してみました。もちろん文語調では不可能で、現代語で訳しました。

この詩は、現実に起こり得ている状態を歌っているので直接法現在です。さて、そうだとすると、もし私なら、この詩をどういう風に翻訳するでしょうか。

「砂漠なる地の大枝おおえだもと ワイン傾け
一冊の詩集とわずかなるパン ­ そして貴女あなた
私のかたわらであなたが歌えば、ああこの砂漠さえ
完璧な天国であると 私の心は満ちたりる!」(拙訳)

■ ワインのこと
19世紀のイギリスでは、ワインは普通に飲まれるアルコール飲料でした。フランスのボルドーもかつてイギリス支配の地域でしたから、ボルドーからイギリスへは盛んにワインが輸出されていました。
ところが、日本では、カイヤムの詩を翻訳し始めた明治の時代、wineは「お酒」あるいは「葡萄の酒」「葡萄酒」いう風に訳す以外、一般の人には理解できないものでした。

私が子供時代を送った昭和20年代でさえ、日本ではワインという飲み物は珍しいものでした。
一般の家庭でもレストランでもワインを手元に置く習慣はありませんでした。また大人たちが催す宴会でも、ワインはありませんでした。わずかに「赤玉ポートワイン」という名称のワインらしきお酒は市販されていましが、現在市販されているワインとは相当かけ離れたものでした。

思えば、隔世の感があります。
明治5年に群馬県の富岡に日本で最初の官営富岡製糸場ができ、フランス人たちがやってきて日本の女性たちに生糸の器械生産を教えることになりました。が、肝心の日本の若い女性たちがなかなか応募してきません。その理由は、フランス人たちが、夜な夜な赤い血を飲んでいるという噂でした。「とてもじゃないけど、自分の娘をそのような吸血鬼の所へ働きに出すわけには行かない。娘の血が吸われてしまう」という親の反対もあって、富岡製糸場の工女募集はかなり難儀なものでした。

Christian Polak著「絹と光 日仏交流の黄金期」HACHETTE―FUJINGAHO社刊より転載しました。

器械製糸での生糸生産が、外貨獲得のための近道であるという明治政府は、どうあっても器械製糸を稼働させる必要に迫られており、日本の近代化のためにという大義名分を喧伝し、最初は、武士階級や地主階級の若い女性たちを富岡製糸場へ動員するという形をとりました。
当時、各県の県庁からは県下の村長宛てに「13歳より25歳までの女子を富岡製糸場へ出すべし」というお達しが回り、若い女子を持つ親たちは随分と悩んだ様子が、富岡製糸場の工女になった和多英子の日記に書いてあります。
「やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には、『区長の所に丁度年頃の娘があるに出さぬのが何より証拠だ』と申すようになりました。」(和田英子 富岡日記より)。
そんな風潮のなかで、区長(村長)であった英子の家では、父親も一大決心して英子を富岡製糸場へ出すことになった次第で、当時の日本の田舎では、異人たちが若い娘の血を取って、ああして毎晩飲んでいるのだと思われていました。それがワインでした。

ギヤマン(ガラス)の器で赤い血を飲むフランス人。近郊近在の人たちには恐怖の対象でした。が、和田英子の日記にもありますように、最初は恐怖の対象でしたが、フランス人たちと働いているうちに、フランス人たちに進められてワインを飲んでみると、結構美味しいので、ワインに対しての偏見は次第に無くなっていきました。

明治、大正、そして昭和の半ばまで、ワインは「酒」とか「葡萄酒」とかに訳されていました。日本人の日常生活の中では、ワインはほとんどその存在を認められていませんでした。

さて話をこの詩に戻しますと、
広大な砂漠の中にあるぽつんとした一本の木、その緑なす大枝の下で、若い美女を相手にワインを傾け、詩集を開き、美女が歌い、わずかなるパンを食するとは。

私には、サハラ砂漠での生活が多少ともありますが、ある日、冷蔵コンテナで運ばれてきた生野菜(レタス、タマネギ、ニンジン等)をドレッシングをかけて生のまま食べたことがあります。コンテナを改良したハウスの中から目の前に広がる砂漠を見つつ…
砂漠ではいうまでもなく生の野菜は一切育ちません。
その野菜を眼前の砂漠の中で食するとは、人間って、本当に心理的な生き物だな、という感を強くしました。普段、都会の生活の中で食べている生野菜よりも数十倍もおいしいという事実。同じ生野菜でありながら、格段に違うのです。

ましてこの詩のように、砂漠の緑なす木の下で、砂漠の地では生産できないワインを傾け、また砂漠の地では育たない小麦、その小麦からなるパンを食し、若いピチピチの美女を相手なら、これはもう一国を支配する王様よりも幸せな気分でしょう。

はからずも一国の王様よりもと云いましたが、実は、この詩の別のヴァージョン Justin Huntly MacCarthyが訳したマッカシー版では、次のようになっております。

MacCarthy (449) マッカシー版(第449章)
Give me a flagon of red wine, a book of Verses, a loaf of bread, and a little idleness. If with such store, I might sit by the dear side in some lonely place, I should deem myself happier than a king in his kingdom.
(私にひと瓶のレッドワインと一冊の詩集とわずかな自由を与えてください。これだけあれば、そしてどこか人気のない場所で、愛する者のそばに座ることができたなら、私はかの王国における王よりも自分を幸せだとみなすでしょう。)

―続くー

<ある通訳の日誌>詩の世界 詩のこころ3

2021年7月14日

詩の世界 詩のこころ
橋爪 雅彦
1
フィッツジェラルド
森(もり) 亮(りょう)訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩

第一回
第二回

―第三回ー

3.自分なりの世界 自分なりの幸せを
ルバイヤート第十歌(森 亮訳)

畑地よりあら野をさして
いざ来ませ、 草生くさふづたいに
このわたりスルタンも奴僕ぬぼくも今や名はなくて
かのマームード、玉座ゆゆしききみかなし

畑地と砂漠との隔てる境に 草草が細長く伸び、
その一筋の草草を踏んで 私と一緒に来てみなさい。
このあたりでは、スルタンも奴隷も名もないただの人、
玉座に座ったマームードさえ、哀れなものです。

都を遠く離れた砂漠と農地の間の境界では、きっと王侯の名も、一介の奴隷も等しく無名でのままであり、王侯貴族の生活に憧れることなく、自分は自分なりの世界で充分満ちたりていることを表明してもいます。玉座に居座った王侯など、哀れなものだと喝破している風にさえ見受けられます。

―Edward Fitzgerald  ―X―
(フィッツジェラルド第十歌)

With me along some Strip of Herbage strown
That just divides the desert from the sown,
Where name of Slave and Sultan scarce is known,
And pity Sultan Mahmud on his Throne.

こう思ってくると、やはり自分なりの世界に生き、それを歌った有名な詩を思い出します。中国の古典で有名な「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の歌」です。

日 出 而 作       日出(いで)て作り
日 入 而 息       日入りて息う
鑿 井 而 飲       井を鑿(うが)ちて飲み
耕 田 而 食       田を耕して食らう
帝 力 于 我 何 有 哉   帝力 我において何か有らん哉(や)

お日様が出れば仕事を始め、お日様が沈めば休む。井戸を掘削して水を飲み、田畑を耕して食する。こういう生活に、帝王の力など必要ないし関係ない。

この歌を聞いた当時の王様は、ああ、自分の政治が良く隅々まで行きわたっているな、と実感したそうです。いかなる土地であろうと、王であれば、税をかけて民からお金を徴収することもできるし、働き手の若者を兵として徴収することもできるし、耕している田畑が、王侯貴族の狩猟の場に提供されることもあるといった次第で、上記のように民が歌うことができるのは、自らの統治に、民が満足しているからだ、と自らも大いに満足したとのことです。

普通なら、王様なんて関係ないよ、と歌う民に対して、王は何らかの形で、そう歌う民に自分の権力を見せつけ、懲らしめることがしばしばありますが、さすが古代の中国の王は違います。
そして「古詩源」に遡るといわれるこの歌を、後生大事に愛誦し続けてきた民衆の力と、それを歴史の中に記述し続けてきた歴史家たちのエネルギーこそ、敬意を払わねばならないところです。

一方、歌う側としては、王や権力に関係なく、自らの生活は自らの意志と努力で続けてゆく、
このスタンスを崩しません。ここに自らの幸福の源泉があるからです。

■ 芥川龍之介と下町
さて、今回もまた芥川龍之介を引用して恐縮ですが、私の好きな歌に「汝(な)と住むべくは」があります。

汝(な)と住むべくは下町の
水(み)どろは青き溝づたひ
汝(な)が洗湯(せんとう)の行来(ゆきき)には
昼もなきつる蚊を聞かむ

あなたと一緒になって、住みたいところは、下町の
青いドブ水のある溝づたいの家
あなたが銭湯に行き来するときは、
昼間でも蚊の鳴き声を聞いていましょう。

かつて下町にはどこにもあったドブ川。青く濁り多少の臭みもある水が、流れるような流れないような淀みの中で、それに沿って長屋が続き、その長屋の一軒をあなたと一緒に暮らす住処として、あなたが銭湯へ行き来する昼間には、蚊の鳴き声を聞いていましょうという芥川の愛する人への問いかけの歌です。

いうまでもなく、芥川は東京の出身です。生まれは京橋であったが、母が発狂したため、母の実家である両国の芥川家に預けられ,後、芥川家の養子となった人です。明治の時代、生まれの京橋も下町でしたが、育った両国も下町でした。

自分の育った界隈には、特別な愛着を持ちます。
ドブ川の青く腐った水の流れも、また時にはその上にドブ板といった木製の板をかけてドブを見せないような工夫もしていました。お金持ちの屋敷等はもちろんありません。連綿と続く長屋には、庶民の哀歓がもろに現出され、生き生きとした世界そのものでした。
隣の家の夫婦喧嘩も、子供を叱る親たちの声も、また若い夫婦の夜の営みも、もろに聞こえてくる、いわばプライベートと呼べる世界とは遠く離れた世界でした。
もちろん家には風呂はなく、みな誰しも銭湯へ通いました。銭湯は、長屋の住人たちの社交場でもあり、息子が大工で一人前になったことや、娘がどこそこへ嫁に行ったことや、どこどこの田舎から若い娘がこの町に嫁に来たとか、ありとあらゆる庶民の世間話が、銭湯では大はやりでした。

芥川という大文芸家の腕にかかると、下町を流れるドブ川も、銭湯も、昼の蚊も、なにかしら高貴さが漂ってきます。

下町とはいえ、芥川の育った家は、江戸時代から徳川幕府に使える家柄で、江戸の文人墨客の趣味に満ちた家でした。江戸の文化教養を身に着けた家の人たちから、芥川はその才能を育てられたといってもいいでしょう。
江戸の文人趣味と下町の風情。これがミックスしたところに、この歌は生まれたと言えるでしょう。

僕もまた、学生時代、この歌を愛誦しつつ、この歌をまねて、意中の人に「あなたと住むべくは…」を書いて送ったことがあります。
僕の家はお寺でした。長兄が実家の寺を継ぎ、五番目の兄が高崎市内のお寺に入り、そして七番目である私は、高崎郊外の小さな村のお寺へ入ることを夢見ていました。父と母が若いころ過ごした寺で、当時は空き寺になっていました。この空き寺の住職となって、ゆっくりと日本の古典を読み、近くの川の畔を散歩し、時には詩や短歌をものして、静かな人生を贈ろうと夢想していました。

意中の人に対し、自分は高崎郊外の小さな村の寺院で、後ろ手に聞く川のせせらぎを友として、人生をあなたと共に送っていきたいという夢想を述べた詩を送りました。「あなたと住むべくは 小さき村の 川のほとりのとある寺院。せせらぎの音も和やかに…」

そして彼女の反応は、「とんでもありません。あんな田舎の寂しいところで、スーパーも無ければ医者もいない。あんなところで暮らすことを夢見るなんて、ごめん蒙ります。」という現実味を帯びた厳しい言葉で、私の提案ははねのけられました。

昭和40年代、日本の高度成長の波に乗って、都会では高級なアパートやマンションが建ち始め、誰もが都会生活の中のマンション生活へのあこがれを強くしていた時だからです。

その村は、戸数40戸ほどの村で、一軒のお寺以外、塩、味噌、砂糖などを売る小さな雑貨屋が一軒あるだけで、あとは全戸が農家でした。

■ 自分は自分なりの世界を
カイヤムは、上記の詩にみられるように、砂漠と耕地との境あたりで、王侯もここでは名さえ知られていず、奴隷も身分を忘れて、のびやかに暮らせる世界、そこへ私たちをいざなっているのです。
芥川は、彼なりに、下町の世界に憧れていました。また先ほどの「鼓腹撃壌」の歌も言うまでもありません。

私たちは、ともすれば、現実の社会のなかで立身出世を夢見、そしてなんでもいいから社会の階層を上へ上へと登っていきたいと思うようになります。あるいは、あまり上ではなくとも、中ぐらいのところで、居心地よく居座って、安定した小市民生活がおくれるならと。
子供のころから親や周囲からよく聞かされますよね。特に中学生になったころから、高校は有名な進学校へ進み、大学は有名大学へ行くことが社会への登竜門であり、自己が社会の中で一生涯にわたる経済的な安定と身分の保証と社会的な栄光が与えられると場であると。

そうして、世間が決めた社会的価値をしっかりと信じて受験勉強に励んだりしますよね。

しかし、それは自分なりの幸福とは無縁の世界です。社会が決めたレールとは別個に、やはり自分には自分なりの世界を作り、そこに自分なりの幸福の源泉を求める生き方も、素晴らしいものです。特に歳を取ってから、60歳を過ぎたころから、「社会上昇志向の人」と「こころの世界充足組の人」とは大きな差が現れます。経済安定や社会的位置だけに固執してきた人たちには、こころの安定と人間社会の面白さが分かりにくいという欠陥があります。

さて、最後にフィッツジェラルドの訳詩をフランス語に訳したフランス人の訳を掲げます。
―Edward Fitzgerald  ―X―
(フィッツジェラルド第十歌)
Avec moi sur cette frange brodée d’herbe
Qui sépare le désert des champs cultivés,
Où le nom d’Esclave et de Sultan est connu à peine
Où le sultan Mahmoud sur son trône fait pitié.
(Traduction par Charles Grolleau -Paris Nelson Editeurs-)

意味が明快です。「明快でないものは、フランス的でない。」というデュアメルの言葉がありますが、これを地で行くようなフランス語訳です。明快すぎて、フィッツジェラルドの訳詩が、裸になってしまったような感じです。フィッツジェラルドの訳詩を荘厳な建物にたとえるなら、グロローの仏訳はその設計図のような趣です。
―続くー

 

<ある通訳の日誌> 詩の世界 詩のこころ 2

2021年6月22日

詩の世界 詩のこころ
橋爪 雅彦
1
フィッツジェラルド
もり りょう 訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩

第一回

―第二回ー

2. 四行詩
19世紀後半、フィッツジェラルドがカイヤムの四行詩集「ルバイヤート」を英訳し、カイヤムの名は全世界に知られるようになりました。それまでは、誰一人、カイヤムの名を知る者はありませんでした。
オーマー・カイヤム、(Oumar Khayyam)は11世紀中ごろペルシャのナイシャプールという都会に生まれました。ペルシャでは、天文学者、数学者、哲学者として名をはせた人で、12世紀初頭に没した模様です。「四行詩」ルバイヤートを残しました。

四行詩というと、これは日本の詩の中にはありえない形です。いいや日本にも四行で書いた詩があるではないかという人もいます。たとえば、吉井 勇作詞、中山 晋平作曲のあの有名な「ゴンドラの唄」などがそれではないかと言う人もいますが、かなり事情は違っています。
いのち短し こいせよ少女おとめ
あかき唇 せぬ間に
あつ血潮ちしおの冷えぬ間に
明日あすの月日のないものを (吉井 勇作詞)

大正時代末期から日本全国どこでも歌われ、現代にいたるまで歌い継がれている有名な唄です。併し、この唄は、この四行だけではなく、これより二番、三番、四番まで歌詞が続いて一つの唄として終わります。

ところが、カイヤムの四行詩というのは、確かに四行で書かれていても、この四行だけで完結します。この四行の中にすべての感慨とか世界観とかを入れ込み、それで終わる詩形です。

ルバイヤート第十九歌(森 亮訳)
河の岸辺にさみどりの叢立むらだち繁き高草たかくさ
そのかぐはしき草にし我等もたるれば、
ああ、かろくもたれてあらん。たれか知る
そはひそやかに麗しき人の口より生ひでしを。

心地よいみどりの高草が
私たちが身を凭れさせる河の岸辺に茂っている
ああ、そっとそっとその身を凭れさせよう、
というのも、眼には見えないが、
草草は、昔、美しかった人の口から生えてきているのを誰が知ろう。

―Edward Fitzgerald  XIX―
(フィッツジェラルド第十九歌)
And this delightful herb whose tender Green
Fledged the River’s Lip on which we lean-
Ah, lean upon it lightly!for who knows
From what once lovely Lip it unseen!

岸辺で緑の草にその身を凭れさせるとき、こころしましょう、その草は、昔、美しかった女性の口から生え出てきたのだから、という発想も僕を狂喜させました。
第一行末尾のGreen、第二行末尾のlean, 第四行末尾のunseenで押韻しています。一行が十音節で構成されてもいます。そしてこの四行だけで詩は完結しています。

さてこのような詩形は日本には全くありませんが、中国にはあるんですね。絶句がそうです。
第一行末尾(起句)第二行末尾(承句)そして第四行末尾(結句)に押韻しています。

唐代の詩人 高適(こうせき)の七言絶句「除夜の作」を引き合いに出します。

旅館寒燈獨不眠 旅館の寒灯独り眠らず
客心何事転凄然 客心何事ぞうたせいぜん
故郷今夜思千里 故郷 今夜千里を思う
霜鬢明朝又一年 そうびん明朝また一年

 誰しも故郷を遠く離れて旅をしている時、あるいは遠い異郷に一人で赴任している時、旅館の部屋の灯のもとに、ひとり眠られず、旅の愁いは凄然と胸に迫ってきます。今宵はるかな故郷を思い、明日にはまた耳際(みみぎわ)の髪の毛が一つ年を取って白くなっていくという感慨を唄ったものです。この詩は、四行二十八文字で完結です。

第一行末尾の「眠」、第二行末尾の「然」、第四行末尾の「年」で押韻しています。

(ここでおやっと思う人もいるかもしれません。「眠」の字に関して私たちはMINと発音します。「然」という字は現代では漢音のままZENと発音することが多いのです。そして最後の「年」は、通常私たちが発音しているのは呉音でNENと発音し、漢音ではDENとなります。

ところが漢詩では、漢音で発音することが通常となっております。
「眠」の字は、一番古い音、呉音ではメン(MEN), 漢音ではベン(BEN),そして慣用音ではミン(MIN)と発音しています。現代の私たちは慣用音のMINだけで発音しています。

漢音で発音することが漢詩の通常である以上、「眠」はBENの発音が適用されます。
そうすると、「眠」はBENであり、「然」はZENであり、「年」はDENであることにより、押韻が正しいことが分かります。)

今、私たちは、詩を味わう立場です。味わう以上、このような押韻の知識やまして絶句の作詞上必要となる様々な規則などは、不問に付することにしましょう。大事なのは、読み、心で作者と共感し、感動することです。

「除夜」を引き合いに出したついでに、芥川 龍之介が除夜の鐘の音を聞きつつ作詞したものを掲げます。

除夜の鐘の 聞こゆれば
雪はしずかにつもるなり
除夜の鐘の 消えゆけば
は今ひとと 眠るらん (「芥川 龍之介全集」より)

すべてクラシックな七五調でそろえています。
除夜の鐘とともに、しんしんと降り積もる雪。そして除夜の鐘の音が消えてゆこうとするとき、かつて愛したあなたは、今、他の人の妻となって、夫なる人とともに眠っていることであろうと。
除夜、鐘の音、雪、そしてあなた。年の最後を彩る役者がすべてそろっているようです。
―続くー

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