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仏語通訳旅ブログを寄稿してくださっているフランス語の通訳、橋爪氏がずっと心の内に秘めていた詩への情熱を綴ってくれました。フィッツジェラルド、芥川龍之介、 佐藤春夫や、中国は唐代の詩人高適など、今度はアフリカへの旅ではなく、詩で世界を飛び回ります。

<ある通訳の日誌>詩の世界 詩のこころ 4

2021年9月17日

詩の世界 詩のこころ
橋爪 雅彦
1
フィッツジェラルド
森(もり) 亮(りょう)訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩

―前回の続きー
4.「一国の王様よりも幸せ」という世界
ルバイヤート第十一歌(森 亮訳)
ここにしての下かげに歌の巻
酒の一壺、かてし足り、かたへにいまし
よきうたを歌ひてあらばものににず、
あら野もすでに楽土かな。

木陰にて詩集を開き、美味しいワインとわずかなパンと、そして貴女あなた
私の脇で、あなたが歌えば、何物にも代えがたく、
ああ、あら野も天国だ。

―Edward Fitzgerald  ―Ⅺ―
(フィッツジェラルド第十一歌)
Here with a Loaf of Bread beneath the Bough,
A Flask of Wine, a Book of Verse ­ and Thou
Beside me singing in the Wilderness ­
And Wilderness is Paradise enow.

これもまた美しい韻律です。Bough、Thou、enowと[au]で脚韻します。名詞を大文字で書くのもやや古風な形です。enowはenoughの古形にあたります。Thouは二人称主格にあたる古語です。

森 亮の文語訳も見事です。中国の漢文訓読調から古事記、日本書紀、そして万葉集、古今和歌集、新古今和歌集などの膨大な古典的教養を自己薬籠中のものにしている彼のような博学な翻訳者に比べると、私などは恥ずかしい限りですが、この詩には私なりの思い入れがあり、あえて私の無学を顧みず訳してみました。もちろん文語調では不可能で、現代語で訳しました。

この詩は、現実に起こり得ている状態を歌っているので直接法現在です。さて、そうだとすると、もし私なら、この詩をどういう風に翻訳するでしょうか。

「砂漠なる地の大枝おおえだもと ワイン傾け
一冊の詩集とわずかなるパン ­ そして貴女あなた
私のかたわらであなたが歌えば、ああこの砂漠さえ
完璧な天国であると 私の心は満ちたりる!」(拙訳)

■ ワインのこと
19世紀のイギリスでは、ワインは普通に飲まれるアルコール飲料でした。フランスのボルドーもかつてイギリス支配の地域でしたから、ボルドーからイギリスへは盛んにワインが輸出されていました。
ところが、日本では、カイヤムの詩を翻訳し始めた明治の時代、wineは「お酒」あるいは「葡萄の酒」「葡萄酒」いう風に訳す以外、一般の人には理解できないものでした。

私が子供時代を送った昭和20年代でさえ、日本ではワインという飲み物は珍しいものでした。
一般の家庭でもレストランでもワインを手元に置く習慣はありませんでした。また大人たちが催す宴会でも、ワインはありませんでした。わずかに「赤玉ポートワイン」という名称のワインらしきお酒は市販されていましが、現在市販されているワインとは相当かけ離れたものでした。

思えば、隔世の感があります。
明治5年に群馬県の富岡に日本で最初の官営富岡製糸場ができ、フランス人たちがやってきて日本の女性たちに生糸の器械生産を教えることになりました。が、肝心の日本の若い女性たちがなかなか応募してきません。その理由は、フランス人たちが、夜な夜な赤い血を飲んでいるという噂でした。「とてもじゃないけど、自分の娘をそのような吸血鬼の所へ働きに出すわけには行かない。娘の血が吸われてしまう」という親の反対もあって、富岡製糸場の工女募集はかなり難儀なものでした。

Christian Polak著「絹と光 日仏交流の黄金期」HACHETTE―FUJINGAHO社刊より転載しました。

器械製糸での生糸生産が、外貨獲得のための近道であるという明治政府は、どうあっても器械製糸を稼働させる必要に迫られており、日本の近代化のためにという大義名分を喧伝し、最初は、武士階級や地主階級の若い女性たちを富岡製糸場へ動員するという形をとりました。
当時、各県の県庁からは県下の村長宛てに「13歳より25歳までの女子を富岡製糸場へ出すべし」というお達しが回り、若い女子を持つ親たちは随分と悩んだ様子が、富岡製糸場の工女になった和多英子の日記に書いてあります。
「やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には、『区長の所に丁度年頃の娘があるに出さぬのが何より証拠だ』と申すようになりました。」(和田英子 富岡日記より)。
そんな風潮のなかで、区長(村長)であった英子の家では、父親も一大決心して英子を富岡製糸場へ出すことになった次第で、当時の日本の田舎では、異人たちが若い娘の血を取って、ああして毎晩飲んでいるのだと思われていました。それがワインでした。

ギヤマン(ガラス)の器で赤い血を飲むフランス人。近郊近在の人たちには恐怖の対象でした。が、和田英子の日記にもありますように、最初は恐怖の対象でしたが、フランス人たちと働いているうちに、フランス人たちに進められてワインを飲んでみると、結構美味しいので、ワインに対しての偏見は次第に無くなっていきました。

明治、大正、そして昭和の半ばまで、ワインは「酒」とか「葡萄酒」とかに訳されていました。日本人の日常生活の中では、ワインはほとんどその存在を認められていませんでした。

さて話をこの詩に戻しますと、
広大な砂漠の中にあるぽつんとした一本の木、その緑なす大枝の下で、若い美女を相手にワインを傾け、詩集を開き、美女が歌い、わずかなるパンを食するとは。

私には、サハラ砂漠での生活が多少ともありますが、ある日、冷蔵コンテナで運ばれてきた生野菜(レタス、タマネギ、ニンジン等)をドレッシングをかけて生のまま食べたことがあります。コンテナを改良したハウスの中から目の前に広がる砂漠を見つつ…
砂漠ではいうまでもなく生の野菜は一切育ちません。
その野菜を眼前の砂漠の中で食するとは、人間って、本当に心理的な生き物だな、という感を強くしました。普段、都会の生活の中で食べている生野菜よりも数十倍もおいしいという事実。同じ生野菜でありながら、格段に違うのです。

ましてこの詩のように、砂漠の緑なす木の下で、砂漠の地では生産できないワインを傾け、また砂漠の地では育たない小麦、その小麦からなるパンを食し、若いピチピチの美女を相手なら、これはもう一国を支配する王様よりも幸せな気分でしょう。

はからずも一国の王様よりもと云いましたが、実は、この詩の別のヴァージョン Justin Huntly MacCarthyが訳したマッカシー版では、次のようになっております。

MacCarthy (449) マッカシー版(第449章)
Give me a flagon of red wine, a book of Verses, a loaf of bread, and a little idleness. If with such store, I might sit by the dear side in some lonely place, I should deem myself happier than a king in his kingdom.
(私にひと瓶のレッドワインと一冊の詩集とわずかな自由を与えてください。これだけあれば、そしてどこか人気のない場所で、愛する者のそばに座ることができたなら、私はかの王国における王よりも自分を幸せだとみなすでしょう。)

―続くー

<ある通訳の日誌>詩の世界 詩のこころ3

2021年7月14日

詩の世界 詩のこころ
橋爪 雅彦
1
フィッツジェラルド
森(もり) 亮(りょう)訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩

―前回の続きー
3.自分なりの世界 自分なりの幸せを
ルバイヤート第十歌(森 亮訳)

畑地よりあら野をさして
いざ来ませ、 草生くさふづたいに
このわたりスルタンも奴僕ぬぼくも今や名はなくて
かのマームード、玉座ゆゆしききみかなし

畑地と砂漠との隔てる境に 草草が細長く伸び、
その一筋の草草を踏んで 私と一緒に来てみなさい。
このあたりでは、スルタンも奴隷も名もないただの人、
玉座に座ったマームードさえ、哀れなものです。

都を遠く離れた砂漠と農地の間の境界では、きっと王侯の名も、一介の奴隷も等しく無名でのままであり、王侯貴族の生活に憧れることなく、自分は自分なりの世界で充分満ちたりていることを表明してもいます。玉座に居座った王侯など、哀れなものだと喝破している風にさえ見受けられます。

―Edward Fitzgerald  ―X―
(フィッツジェラルド第十歌)

With me along some Strip of Herbage strown
That just divides the desert from the sown,
Where name of Slave and Sultan scarce is known,
And pity Sultan Mahmud on his Throne.

こう思ってくると、やはり自分なりの世界に生き、それを歌った有名な詩を思い出します。中国の古典で有名な「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の歌」です。

日 出 而 作       日出(いで)て作り
日 入 而 息       日入りて息う
鑿 井 而 飲       井を鑿(うが)ちて飲み
耕 田 而 食       田を耕して食らう
帝 力 于 我 何 有 哉   帝力 我において何か有らん哉(や)

お日様が出れば仕事を始め、お日様が沈めば休む。井戸を掘削して水を飲み、田畑を耕して食する。こういう生活に、帝王の力など必要ないし関係ない。

この歌を聞いた当時の王様は、ああ、自分の政治が良く隅々まで行きわたっているな、と実感したそうです。いかなる土地であろうと、王であれば、税をかけて民からお金を徴収することもできるし、働き手の若者を兵として徴収することもできるし、耕している田畑が、王侯貴族の狩猟の場に提供されることもあるといった次第で、上記のように民が歌うことができるのは、自らの統治に、民が満足しているからだ、と自らも大いに満足したとのことです。

普通なら、王様なんて関係ないよ、と歌う民に対して、王は何らかの形で、そう歌う民に自分の権力を見せつけ、懲らしめることがしばしばありますが、さすが古代の中国の王は違います。
そして「古詩源」に遡るといわれるこの歌を、後生大事に愛誦し続けてきた民衆の力と、それを歴史の中に記述し続けてきた歴史家たちのエネルギーこそ、敬意を払わねばならないところです。

一方、歌う側としては、王や権力に関係なく、自らの生活は自らの意志と努力で続けてゆく、
このスタンスを崩しません。ここに自らの幸福の源泉があるからです。

■ 芥川龍之介と下町
さて、今回もまた芥川龍之介を引用して恐縮ですが、私の好きな歌に「汝(な)と住むべくは」があります。

汝(な)と住むべくは下町の
水(み)どろは青き溝づたひ
汝(な)が洗湯(せんとう)の行来(ゆきき)には
昼もなきつる蚊を聞かむ

あなたと一緒になって、住みたいところは、下町の
青いドブ水のある溝づたいの家
あなたが銭湯に行き来するときは、
昼間でも蚊の鳴き声を聞いていましょう。

かつて下町にはどこにもあったドブ川。青く濁り多少の臭みもある水が、流れるような流れないような淀みの中で、それに沿って長屋が続き、その長屋の一軒をあなたと一緒に暮らす住処として、あなたが銭湯へ行き来する昼間には、蚊の鳴き声を聞いていましょうという芥川の愛する人への問いかけの歌です。

いうまでもなく、芥川は東京の出身です。生まれは京橋であったが、母が発狂したため、母の実家である両国の芥川家に預けられ,後、芥川家の養子となった人です。明治の時代、生まれの京橋も下町でしたが、育った両国も下町でした。

自分の育った界隈には、特別な愛着を持ちます。
ドブ川の青く腐った水の流れも、また時にはその上にドブ板といった木製の板をかけてドブを見せないような工夫もしていました。お金持ちの屋敷等はもちろんありません。連綿と続く長屋には、庶民の哀歓がもろに現出され、生き生きとした世界そのものでした。
隣の家の夫婦喧嘩も、子供を叱る親たちの声も、また若い夫婦の夜の営みも、もろに聞こえてくる、いわばプライベートと呼べる世界とは遠く離れた世界でした。
もちろん家には風呂はなく、みな誰しも銭湯へ通いました。銭湯は、長屋の住人たちの社交場でもあり、息子が大工で一人前になったことや、娘がどこそこへ嫁に行ったことや、どこどこの田舎から若い娘がこの町に嫁に来たとか、ありとあらゆる庶民の世間話が、銭湯では大はやりでした。

芥川という大文芸家の腕にかかると、下町を流れるドブ川も、銭湯も、昼の蚊も、なにかしら高貴さが漂ってきます。

下町とはいえ、芥川の育った家は、江戸時代から徳川幕府に使える家柄で、江戸の文人墨客の趣味に満ちた家でした。江戸の文化教養を身に着けた家の人たちから、芥川はその才能を育てられたといってもいいでしょう。
江戸の文人趣味と下町の風情。これがミックスしたところに、この歌は生まれたと言えるでしょう。

僕もまた、学生時代、この歌を愛誦しつつ、この歌をまねて、意中の人に「あなたと住むべくは…」を書いて送ったことがあります。
僕の家はお寺でした。長兄が実家の寺を継ぎ、五番目の兄が高崎市内のお寺に入り、そして七番目である私は、高崎郊外の小さな村のお寺へ入ることを夢見ていました。父と母が若いころ過ごした寺で、当時は空き寺になっていました。この空き寺の住職となって、ゆっくりと日本の古典を読み、近くの川の畔を散歩し、時には詩や短歌をものして、静かな人生を贈ろうと夢想していました。

意中の人に対し、自分は高崎郊外の小さな村の寺院で、後ろ手に聞く川のせせらぎを友として、人生をあなたと共に送っていきたいという夢想を述べた詩を送りました。「あなたと住むべくは 小さき村の 川のほとりのとある寺院。せせらぎの音も和やかに…」

そして彼女の反応は、「とんでもありません。あんな田舎の寂しいところで、スーパーも無ければ医者もいない。あんなところで暮らすことを夢見るなんて、ごめん蒙ります。」という現実味を帯びた厳しい言葉で、私の提案ははねのけられました。

昭和40年代、日本の高度成長の波に乗って、都会では高級なアパートやマンションが建ち始め、誰もが都会生活の中のマンション生活へのあこがれを強くしていた時だからです。

その村は、戸数40戸ほどの村で、一軒のお寺以外、塩、味噌、砂糖などを売る小さな雑貨屋が一軒あるだけで、あとは全戸が農家でした。

■ 自分は自分なりの世界を
カイヤムは、上記の詩にみられるように、砂漠と耕地との境あたりで、王侯もここでは名さえ知られていず、奴隷も身分を忘れて、のびやかに暮らせる世界、そこへ私たちをいざなっているのです。
芥川は、彼なりに、下町の世界に憧れていました。また先ほどの「鼓腹撃壌」の歌も言うまでもありません。

私たちは、ともすれば、現実の社会のなかで立身出世を夢見、そしてなんでもいいから社会の階層を上へ上へと登っていきたいと思うようになります。あるいは、あまり上ではなくとも、中ぐらいのところで、居心地よく居座って、安定した小市民生活がおくれるならと。
子供のころから親や周囲からよく聞かされますよね。特に中学生になったころから、高校は有名な進学校へ進み、大学は有名大学へ行くことが社会への登竜門であり、自己が社会の中で一生涯にわたる経済的な安定と身分の保証と社会的な栄光が与えられると場であると。

そうして、世間が決めた社会的価値をしっかりと信じて受験勉強に励んだりしますよね。

しかし、それは自分なりの幸福とは無縁の世界です。社会が決めたレールとは別個に、やはり自分には自分なりの世界を作り、そこに自分なりの幸福の源泉を求める生き方も、素晴らしいものです。特に歳を取ってから、60歳を過ぎたころから、「社会上昇志向の人」と「こころの世界充足組の人」とは大きな差が現れます。経済安定や社会的位置だけに固執してきた人たちには、こころの安定と人間社会の面白さが分かりにくいという欠陥があります。

さて、最後にフィッツジェラルドの訳詩をフランス語に訳したフランス人の訳を掲げます。
―Edward Fitzgerald  ―X―
(フィッツジェラルド第十歌)
Avec moi sur cette frange brodée d’herbe
Qui sépare le désert des champs cultivés,
Où le nom d’Esclave et de Sultan est connu à peine
Où le sultan Mahmoud sur son trône fait pitié.
(Traduction par Charles Grolleau -Paris Nelson Editeurs-)

意味が明快です。「明快でないものは、フランス的でない。」というデュアメルの言葉がありますが、これを地で行くようなフランス語訳です。明快すぎて、フィッツジェラルドの訳詩が、裸になってしまったような感じです。フィッツジェラルドの訳詩を荘厳な建物にたとえるなら、グロローの仏訳はその設計図のような趣です。
―続くー

 

<ある通訳の日誌> 詩の世界 詩のこころ 2

2021年6月22日

詩の世界 詩のこころ
橋爪 雅彦
1
フィッツジェラルド
もり りょう 訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩
―前回の続きー

2. 四行詩
19世紀後半、フィッツジェラルドがカイヤムの四行詩集「ルバイヤート」を英訳し、カイヤムの名は全世界に知られるようになりました。それまでは、誰一人、カイヤムの名を知る者はありませんでした。
オーマー・カイヤム、(Oumar Khayyam)は11世紀中ごろペルシャのナイシャプールという都会に生まれました。ペルシャでは、天文学者、数学者、哲学者として名をはせた人で、12世紀初頭に没した模様です。「四行詩」ルバイヤートを残しました。

四行詩というと、これは日本の詩の中にはありえない形です。いいや日本にも四行で書いた詩があるではないかという人もいます。たとえば、吉井 勇作詞、中山 晋平作曲のあの有名な「ゴンドラの唄」などがそれではないかと言う人もいますが、かなり事情は違っています。
いのち短し こいせよ少女おとめ
あかき唇 せぬ間に
あつ血潮ちしおの冷えぬ間に
明日あすの月日のないものを (吉井 勇作詞)

大正時代末期から日本全国どこでも歌われ、現代にいたるまで歌い継がれている有名な唄です。併し、この唄は、この四行だけではなく、これより二番、三番、四番まで歌詞が続いて一つの唄として終わります。

ところが、カイヤムの四行詩というのは、確かに四行で書かれていても、この四行だけで完結します。この四行の中にすべての感慨とか世界観とかを入れ込み、それで終わる詩形です。

ルバイヤート第十九歌(森 亮訳)
河の岸辺にさみどりの叢立むらだち繁き高草たかくさ
そのかぐはしき草にし我等もたるれば、
ああ、かろくもたれてあらん。たれか知る
そはひそやかに麗しき人の口より生ひでしを。

心地よいみどりの高草が
私たちが身を凭れさせる河の岸辺に茂っている
ああ、そっとそっとその身を凭れさせよう、
というのも、眼には見えないが、
草草は、昔、美しかった人の口から生えてきているのを誰が知ろう。

―Edward Fitzgerald  XIX―
(フィッツジェラルド第十九歌)
And this delightful herb whose tender Green
Fledged the River’s Lip on which we lean-
Ah, lean upon it lightly!for who knows
From what once lovely Lip it unseen!

岸辺で緑の草にその身を凭れさせるとき、こころしましょう、その草は、昔、美しかった女性の口から生え出てきたのだから、という発想も僕を狂喜させました。
第一行末尾のGreen、第二行末尾のlean, 第四行末尾のunseenで押韻しています。一行が十音節で構成されてもいます。そしてこの四行だけで詩は完結しています。

さてこのような詩形は日本には全くありませんが、中国にはあるんですね。絶句がそうです。
第一行末尾(起句)第二行末尾(承句)そして第四行末尾(結句)に押韻しています。

唐代の詩人 高適(こうせき)の七言絶句「除夜の作」を引き合いに出します。

旅館寒燈獨不眠 旅館の寒灯独り眠らず
客心何事転凄然 客心何事ぞうたせいぜん
故郷今夜思千里 故郷 今夜千里を思う
霜鬢明朝又一年 そうびん明朝また一年

 誰しも故郷を遠く離れて旅をしている時、あるいは遠い異郷に一人で赴任している時、旅館の部屋の灯のもとに、ひとり眠られず、旅の愁いは凄然と胸に迫ってきます。今宵はるかな故郷を思い、明日にはまた耳際(みみぎわ)の髪の毛が一つ年を取って白くなっていくという感慨を唄ったものです。この詩は、四行二十八文字で完結です。

第一行末尾の「眠」、第二行末尾の「然」、第四行末尾の「年」で押韻しています。

(ここでおやっと思う人もいるかもしれません。「眠」の字に関して私たちはMINと発音します。「然」という字は現代では漢音のままZENと発音することが多いのです。そして最後の「年」は、通常私たちが発音しているのは呉音でNENと発音し、漢音ではDENとなります。

ところが漢詩では、漢音で発音することが通常となっております。
「眠」の字は、一番古い音、呉音ではメン(MEN), 漢音ではベン(BEN),そして慣用音ではミン(MIN)と発音しています。現代の私たちは慣用音のMINだけで発音しています。

漢音で発音することが漢詩の通常である以上、「眠」はBENの発音が適用されます。
そうすると、「眠」はBENであり、「然」はZENであり、「年」はDENであることにより、押韻が正しいことが分かります。)

今、私たちは、詩を味わう立場です。味わう以上、このような押韻の知識やまして絶句の作詞上必要となる様々な規則などは、不問に付することにしましょう。大事なのは、読み、心で作者と共感し、感動することです。

「除夜」を引き合いに出したついでに、芥川 龍之介が除夜の鐘の音を聞きつつ作詞したものを掲げます。

除夜の鐘の 聞こゆれば
雪はしずかにつもるなり
除夜の鐘の 消えゆけば
は今ひとと 眠るらん (「芥川 龍之介全集」より)

すべてクラシックな七五調でそろえています。
除夜の鐘とともに、しんしんと降り積もる雪。そして除夜の鐘の音が消えてゆこうとするとき、かつて愛したあなたは、今、他の人の妻となって、夫なる人とともに眠っていることであろうと。
除夜、鐘の音、雪、そしてあなた。年の最後を彩る役者がすべてそろっているようです。
―続くー

<ある通訳の日誌> 詩の世界 詩のこころ

2021年5月31日

以前から旅ブログを送ってくれているフランス語通訳の橋爪さんが、大好きだという詩の世界について寄稿してくださいました。「詩」と聞くだけで難しく思えるかもしれませんが、みなさんも家にこもることが多いこのコロナ禍に一緒に詩の世界に飛び込んでみませんか?


詩の世界 詩のこころ
橋爪 雅彦

1
フィッツジェラルド
森(もり) 亮(りょう)訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩

『1』はじめに
中学校を出て、丁度高校へ入学して1年がたったころ、高校での勉強に全く興味も関心もなかった僕に、評論家 亀井 勝一郎の著作は胸に響いてくる何かがありました。夢中になって、彼のほぼ全著作を読みました。その彼の著作の一つに、「恋愛論」がありました。
この「恋愛論」を耽読しているうちに、その中の「快楽と哀愁の詩人―オーマー・カイヤム」の章節に行き会い、カイヤム(1040-1123)の詩「ルバイヤート」(四行詩集)が十二篇ほど引用されておりました。
もちろん、カイヤムの詩は、ペルシャ語から英国人フィッツジェラルド(1809-1883)により英訳されたもので、それを森亮が和訳したものでした。和訳の中、十篇が森の訳で、二篇が片野 文吉の訳でした。

―ルバイヤート第十八歌 (森 亮訳)―
をりふしは我が思うかな、薔薇(ばら)の花
いとぞ赤きは葬(はふ)りにし遠き帝(みかど)の血より咲けりと。
又思う、御園(みその)に生(お)うる風(ヒヤ)信子(シンス)咲きのことごと
麗しきひとのこうべゆ此処に落ちしと。

バラの花がこれほど赤いのは、昔、埋葬された帝王の血から咲くからだ、
そしてこの庭園に生えているヒヤシンス、美しい人の頭が落ちて、そこからこの花は生えてきたのだと。

フィッツジェラルドはどのように唄っているのでしょうか。
―Edward Fitzgerald  XVⅢ―
I sometimes think that never blows so red
The Rose as where some buried Caesar bled;
That every Hyacinth the Garden wears
Dropt in its Lap from some once lovely Head.

詩の発想に驚きました。バラの深紅もヒヤシンスの華麗さも、まさかこのように歌われるとは、思いもよらぬことです。
なにか「人の世の無常」というか、「人の世の命のせつなさ」というか、私たち東洋の詩人たちは、このようには歌いません。

日本近代の詩人 佐藤春夫は直接に語りかけて歌います。
―よきひとよー
よきひとよ、はかなからずや
うつくしきなれが乳ぶさも
いとあまきそのくちびるも
手をとりて泣けるちかひも
わがけふのかかるなげきも
うつり香の明日はきえつつ
めぐりあふ後さへ知らず
よきひとよ、地上のものは
切なくもはかなからずや。
(佐藤 春夫「殉情詩集」より)

美しいあなたの乳房も、その甘い唇も、そして愛し合って泣ける誓いも、私の今日の嘆きも、移りろいやすい明日には消えてしまうもの。ふたたびめぐり合うことさえわからず、
ああ、愛する人よ、地上の物はどうしてこれほどまでに切なくもはかないものなのか。

自分にも妻子があり、相手にも夫と子供がいる。こんな状況の中で、二人は恋に落ちたとなると、自分の思い通りにならぬ運命というものを嘆き、道ならぬ恋を呪う。そして二人、手を取り合って泣き、運命のいたずらを、生まれた星の違いを嘆く。

こういう経験は、長い人生の中では、一度や二度あるものです。
「いいや、俺には全くない。わたしにも全く無い」という人がいたなら、人生振り返ってみて、自分の空虚な人生を嘆くのがいい、自ら運命の違いの陶酔の中に身を置きえなかった自分を呪った方がよろしいでしょう。

それはともかく、「恋愛論」の中のカイヤムの詩「ルバイヤート」、十篇の森 亮訳、二篇の片野 文吉訳を16歳の日に後生大事にすべて暗唱し、地中海の畔にいようと、アルジェリアの砂漠にいようと、マダガスカル島の熱帯夜のなかにいようと、この地球上のどこにいても、いつでもどこでもこの十二篇の詩を口ずさんでいました。

いつかは森 亮訳の「ルバイヤート」全篇を読んでみたいと思うようになりました。

そのいつかがなかなか僕の人生では巡って来ず、16歳の時から数えて57年、やっと今巡ってきたところです。
思えば、26歳の時に日本を出て、それから23年間の外国暮らし。50歳の歳に日本へ帰ってきたものの、日本と海外を行ったり来たりの生活で、ゆっくりと森 亮の著作を探すわけにもいきませんでした。

70歳を過ぎて、やっと仕事の方も下火となり、充分な時間が持てて、森 亮の著作に出会いました。今やインターネットの時代ですから、ネット上での検索で、森 亮の著作を購入しました。

いついつと 待ちにし人はきたりけり いまはあひ見てなにかおもはむ(良寛)

まるで老いたる良寛が、臨終の今はの際に、今か今かと美貌の貞心尼を待ちかねたように、そして今やっと会えたという感動の中で、自分も森 亮訳のフィッツジェラルド訳「ルバイヤート」全篇に出会ったというわけです。
(なお、森 亮の和訳本では、「ルバイヤット」となっております。)

この本は、美装の箱入りで、しかも三百二十五部限定の出版です。本人の直筆サインまであります。僕の購入した本は三百八番目という但し書きまであります。昭和四十九年十二月槐書房より刊行されました。フィッツジェラルド「ルバイヤート」初版75首を全訳したものです。
価格は一万六千円。(令和2年3月、僕がネット上で購入したときは、運よく五千五百円でした。
森 亮は(1911―1994)は、フィッツジェラルド「ルバイヤート」初版75首を1939年(昭和14年)雑誌「コギト」に三回にわたって連載しました。彼28歳の時で、旧制松江高等学校文科の教授をしていた時です。そして1941年(昭和16年)この初版75首全訳を東京の出版社ぐろりあ・そさえて社より「新ぐろりあ叢書」の一冊として千部刊行しました。そして三十年以上たった昭和49年、上記の美本が325部限定で上梓されました。

―次回に続くー

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