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<めじろ奇譚>昔あった国のことについて

2021年9月30日

「♪昔あった国の映画で 一度観たような道を行く」という歌詞がある曲に出てくる。もちろん、昔あった国と言っても、古今東西数多くある。知る限り作詞者は明確にはしていないようだが、どうもソ連のことを指しているというのが通説らしい。世界に映画が普及した以降になくなった国と言えば、他にもユーゴスラビアとかチェコスロバキアもあるかと思うが、取りあえずソ連と信じて話を進めよう。今回は、この今はなきソ連の名称にまつわる「ちょっと不思議」にお付き合いいただきたい。
まず、ソ連の正式名称を、日本語と本家のロシア語、そして西欧語の代表として英・仏語で書いてみよう。

日:ソビエト社会主義共和国連邦(略称 ソ連)
露:Союз Советских Социалистических Республик (略称СССРまたはСоветский Союз)
英:Union of Soviet Socialist Republics (略称USSRまたはSoviet Union)
仏:Union des républiques socialistes soviétiques (略称URSSまたはUnion soviétique)

1 固有名詞の含まれない国名?
まず注目したいのは、「ソビエト」である。カタカナで表記されるためか、我々はこれを、「インドネシア」とか「ザンビア」と同様の固有名詞と思い込んではいないだろうか。この点については、原語のсовет をそのまま音写しているだけの英・仏語の話者も同様の誤解をしている可能性があるのではないだろうか。
ロシア語のсоветは、そもそも固有名詞などではなく、日常的やり取りでも使用される単語で、基本的な意味は助言、そこから転じてこの場合は(助言をし合う)評議会といった意味合いだ。つまり、この国の名称は、「評議会(совет)(形式の)社会主義(体制の)諸共和国のユニオン」ということだったのだ。
そのため、日・英・仏語のように、そのままソビエト、Soviet、sovietと音写せずに、評議会の意の自言語に訳してこの国を表現している言語もいくつか存在する。
今でこそ反露・親西欧的な姿勢がクローズアップされがちなウクライナだが、ソ連時代は、少なくとも表面的にはロシア(人)とも密接な関係で国を構成していた一員だ。しかもウクライナ語はロシア語とも系統的に非常に近い関係にある。そのウクライナ語では、ソビエトを「ソビエト」とは呼んでいなかったと聞けば、不思議な感じがしないだろうか。ソ連に当たる言い方は、ウクライナ語ではРадянський Союз だ。радянськийはрадаの形容詞形で、ドイツ語のRatにつながると言えばおわかりいただけるだろうか。

2 連邦?
次に問題したいのは、上でわざわざ「ユニオン」として「連邦」としなかった点に関わる。まず、日本語で連邦と言えば、英・仏語であれば、federation、fédérationという語が真っ先に浮かぶのではないかと思う。ロシア語でもфедерация という語はあり、現に現在のロシアの正式名称は、
日:ロシア連邦
露:Российская Федерация
英:Russian Federation
仏:Fédération de Russie
だ。
結論を先に言うと、上で仮に「ユニオン」とした部分の原語союз を、英・仏語では適切にunionとしたが、日本語で「連邦」としたのは問題があったのではないか、ということだ。
союзというのは、あの国で輝いていた宇宙開発分野の話題でよく聞いた、ロケット名ソユーズ○号というあれだ。つながり、結合、組合といった意味で、文法用語の接続詞の意でも使われる。実は、日本語にも、「ソ連」の他に、「ソ同盟」という言い方もあったのだが、ご存じだろうか。こちらの方が、より適切な訳語と思われるのだが、残念ながら、あまり普及しなかった。
連邦と「ユニオン」で政治体制的にどう違うのか、ということにはここでは立ち入らないが、少なくとも、あえてфедерацияを使わなかったということは、一般的な理解の連邦ではなかった(実態はともかく、思想としては)ということになる。

3 何のユニオン?
更に付け加えると、「諸共和国のユニオン」、つまり(1956年から、バルト諸国が一足先に分離するまでは)15のソビエト(評議会)諸共和国のユニオンかという点が、ロシア語はもちろんのこと、英・仏語でも明快だ。この3言語では、「評議会(совет)(形式の)社会主義(体制の)諸共和国」という語が複数形で表現されており、それらのユニオンという語構成になっている。ところが日本語だと、ソビエト+社会主義+共和国+連邦と並列されていて、例えば最初のソビエトが共和国を修飾しているのか連邦を修飾しているのか曖昧だ。ぱっと読むと、(連邦という語はあるにせよ、)諸共和国が同盟を組んでいたということが陰に隠れて感知できない。単一の政体のように感じられてしまう。
この点も、日本でこの国の正確な姿を捉えるのに支障があったのでは、と思えてならない。

以上1~3で訳語の適否という面(と言っていいかどうかも疑問があることは承知の上で)からみると、あくまでも筆者の考えだが、日本語は3敗、英・仏語は2勝1敗ということになる。もちろん、西欧語の方が優れていて日本語は劣っているということでもなければ、ヨーロッパ語の概念を日本語に移せないということでもない。ただ、このような重要な概念を移し替えるに当たっては、もっと慎重であってしかるべきであったのではないか、という気はする。

さて、冒頭で「昔あった国~」という歌詞を紹介したが、それと関連があるのかどうかはよくわからないのだが、「甘い手」という別の曲ではバックに、この昔あった国の映画シーンをサンプリングした男女のロシア語でのやり取りが聞こえてくる。ぜひ一度聞いてみてほしい。(一老いぼれ職員)

(小文の見解は筆者個人のものであり、必ずしも㈱フランシールの公式見解ではありません。)

<めざせ語学マスター>バイリンガリズムについて

2021年9月28日

学生のとき、両親の都合で幼いときに海外に行っていた、というクラスメートが羨ましいと思ったことはありませんか?または、お父さんかお母さんが外国出身だという人にあこがれを抱いたりしませんでしたか?私にとって、バイリンガルはあこがれでした。

翻訳会社に入ってからも「日本語ができていないとちゃんとしたバイリンガルにはなれない」とか、「一度に二か国語を覚えるんじゃなくて片方の言語がしっかり身についてからもう一方を勉強したほうがいい」など、都市伝説的な話をよく耳にしました。今回取り上げるのはそんなバイリンガルについての理論です。

まずは言葉の定義から。
セミリンガル(semi-lingual):二つの言語のうちどちらの能力も十分でない人
モノリンガル(monolingual):一つの言語しか使用できない人
バイリンガル(bilingual):二つの言語がある程度同等に試用できる人
マルチリンガル(multilingual):三つ以上の言語を流暢に使う能力を持っている人
バイリンガリズム(bilingualism):二つの言語を流暢に使う能力を持った人が実際に2言語を運用することや社会の中で二つの言語が使用されること

さらにバイリンガルは下のように分類されます。

① 二つの言語の言語能力による違い

均衡バイリンガル(balanced bilingual )と偏重(不均衡)バイリンガル(unbalanced bilingual)

均衡バイリンガルは2つの言語をほぼ同じバランスで、ネイティブのように使える人のことです。
偏重バイリンガル(不均衡バイリンガルと呼ぶこともあります)は、2つの言語の能力に差があって、どちらか一方のほうが優勢であるような場合です。

    

 (上図)均衡バイリンガル(balanced bilingual )

(下図)偏重(不均衡)バイリンガル(unbalanced bilingual)

② 二つの言語を習得する順番の違い

連続バイリンガリズム(successive bilingualism)と同時バイリンガリズム(simultaneous bilingualism)

子供が家庭で第一言語を習得し、その後小学校などで第二言語を習得してバイリンガルになる場合を連続(あるいは継続/後続性)バイリンガル(consecutive bilingualism/sequential bilingualism)といい、国際結婚などで母親と父親が別々の言語で話しかけて育てた場合は同時バイリンガル(simultaneous bilingualism)といいます。

(上図)連続バイリンガリズム(successive bilingualism)

(下図)同時バイリンガリズム(simultaneous bilingualism)

 

③ 2言語の維持方法の違い

付加的(加算的ともいいます)バイリンガリズム(additive bilingualism)と削減的(減算的ともいう)バイリンガリズム(subtractive bilingualism)

第二言語や文化が加わっても、第一言語の文化にとって代わるのではなく、価値が付加されると考える場合が付加的(加算的)バイリンガリズムで、第二言語を学ぶことで、学習者の第一言語や文化を損なう場合を削減的バイリンガリズムと呼びます。

(上図)付加的バイリンガリズム(additive bilingualism)

(下図)削減的バイリンガリズム(subtractive bilingualism)

 

 

イマージョンプログラムとサブマージョンプログラム

加算的バイリンガリズムを推奨するためのプログラムが、1970年代にカナダで始められたフレンチ・イマージョン・プログラムです。カナダでは英語とフランス語が公用語とされており、このプログラムは幼稚園、小学校、中学校などの選択制プログラムとして行われました。このプログラムは今も続いていて、英語が母語の生徒は、フレンチ・イマージョン・プログラムに、フランス語が母語の生徒は英語のイマージョン・プログラムに参加することができます(例:カルガリー教育委員会サイト)。母語の発達、帰属意識、学力が犠牲にならないようにしながら、母語以外の外国語を習得するためのプログラムになっており、幼いうちから他の言語に慣れることで、語学だけでなく、問題解決能力や、創造性も育てることができるとされています。

イマージョンプログラムと逆に、削減的バイリンガリズムを誘発するのサブマージョンプログラムです。家庭で現地語を使用しない移住者・外国人の児童生徒が現地の学校に投入された場合がこのケースにあたります。外国語で学ぶ環境に入っても、実際に現地語での教科学習が可能になるまでには長い時間がかかります。この状況により母語を使わなくなったり、親子の交流の質が低下したり、学業遅滞、帰属意識混乱が発生する可能性があります。転勤でアメリカに行った家族の子供がアメリカの学校に入学する、日本に移住してきた家族の子供が日本の学校に入学する場合がこのケースにあたります。子供により、現地語を早く習得できる子もいますが、途中でおぼれてしまう子もいます。

イマージョンとサブマージョン、どっちも似ている英語ですが、イマージョン(immersion)は「ちょっと潜る」といった、泳ぐ人に例えると体が上から見えているようなイメージですが、サブマージョン(submersion)は水面より下に体が沈められていて、上からでは泳ぐ人の体が確認できない、スキューバダイビングのようなイメージです。潜水艦もサブマリーン(submarine)ですね。(鍋田)

参考:アルク 第二言語習得論
新版 日本語教育事典


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<めじろ奇譚>私の受けたカルチャーショック(フランス編)

2021年9月23日

今回のテーマ、カルチャーショックは、自分の生まれ育った文化と異なる文化に触れたときに違いを感じてショックを受ける、というものです。

東京都下で生まれ育った私が思い出せるカルチャーショックと言えば、まず、大学生の時にフランスの地方都市に留学した時の事でした。
もう何十年も前のことになってしまいあんまり良く覚えていない、というのが正直なところですが、一番ショックだったのは日曜日にお店がほぼ全部閉まっている事でした。

当時はハンバーガーチェーンなんかもまだ地方都市まで展開しておらずボルドー等の大都市のみでしたから、地方都市の日曜日は死の街の様に静まり返っていました。バス停が集まっている街の中心地のカフェ数軒のうちのいくつかがあいているだけで、街中にあるスーパーもあいておらず、一般のお店も全て閉まっていました。
日曜日は買い物がまったく不可能なので土曜日に買い物をする、という習慣が出来たのでした。

そんな状況はそれから数十年過ぎてフランスの地方都市で仕事をしていた時も変りませんでした。

フランスで最初に住んだ都市はそれでも県庁所在地のまちだったのでそれなりに大きな都市でした。でも仕事で滞在していたまちはそれよりかなり小さな、ピレネー山脈のふもとに近いまちでした。わたしは数人の日本人の人とそのまちに滞在して仕事をしていましたが、日曜日にお店がお休みなのは当たり前。それどころか滞在していたホテルの食堂も日曜日には営業していなかったのです。滞在客がいるのになんでレストランを開けてくれないんだ、という我々の抗議に対してホテルの人は、“おれたちにも休みの日が必要だろ、だってホテルは毎日休みなく開けてるんだから”という返事でした。
なので我々は土曜日にあてがわれてた自転車で郊外のスーパーに買い出しに行って日曜日の食料を確保しておくか、日曜日でも空いている中華料理店に行く、という選択肢しかなかったのでした。

ただ、土曜日は市場の日で町中の広場という広場に大きな移動販売のトレーラーがやってきて、肉、野菜、魚、小物類まで買う事が出来ました。移動販売を専門にしているお店の様で、毎日違う町に行き市場でお店を開いていたのです。日本で想像する移動販売とはスケールが違う大型トラックで、大きなコンテナサイズの荷台がウインウインと開くとそこにはお店が、というもので、移動する店舗と言った方が正確かもしれません。地方のまちにはそれぞれ町の中心に広場があり、月曜日はこのまち、火曜日はここ、と移動していたのです。私たちのいた町はその中では規模が大きな町で人口が1万ぐらいありましたから、土曜日に市場が開かれていたのです。

日曜日は日曜日で町の中心の広場に古物商が店を開き、骨董市が毎週開催されました。
土日の午前中はそういった市場に行くのが日課であり、楽しみでもありました。

それ以外にフランスのいなかで学んだことは、お店でもなんでも中に入るときに必ず挨拶をすることでした。店に入ったら必ず“こんにちは、何なにを探しています”とか“ちょっと見せてください”と言います。レストランでも入ったら店の人に、“一人です、食事できますか”とか言ってから案内されたテーブルに着くのです。黙って勝手に席に座るのはありえない事でした。

私もそういう、お店でもなんでも挨拶してから入る、という習慣を身につけたわけですが、後年通訳になりアフリカの国々に行くようになってもっとおどろかされました。

知らない誰かとすれちがっただけでもみんな結構あいさつするんです。
どこのだれかも知らない人でも、すれ違うときに目があったら必ずこちらもむこうも“こんにちは”というのです。
私はそんな習慣ってとっても良いことだと思います。なんかやさしい心持になります。

だから、というわけではありませんが、私は東京でも食事をしに入った店とかではあいさつするようにしています。出るときにはかならず“ごちそうさま”と言ってでます。
おいしかったらおいしかったといいますし、そうするとお店の人もにっこりしてくれます。
日本、特に東京はひとに冷たい、とか言われますが、だれとでも挨拶するのは良い事だと思います。

しばらく前までわたしは長野の山の中に住んでいました。そこの小学生たちと初めて道で出会ったとき、彼らははじめて会った私に“こんにちは”って言ってくれました。アフリカの人と一緒だな、と私は嬉しくなったものです。

お客様は神様だ、などと偉そうにするより、みんなが笑顔になれる方が良いとおもうのですが。

フランス語通訳 芹澤 紀青


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<めざせ語学マスター>異文化遭遇!カルチャーショック

<めざせ語学マスター>言語は12歳までに習うべき!? 臨界期仮説について

2021年9月21日

やれテストだ、受験だ、と私たちは英語を勉強してきました。大学に入ってからも第2外国語としてフランス語、ドイツ語、中国語などの外国語を多くの人が学んだと思います。特に意識が高い方は「ネイティブのように話したい!」と思ってさらに語学学校に通ったり、留学したりと切磋琢磨されてきたことでしょう。私もそのうちの一人で、20歳でフランスへ留学したときも、バスの中で隣の学生が話していたことを口の中で繰り返したり、ホームステイ先の子供たちとの会話に参加できるように頑張ったりしました。

しかし、そんなネイティブのように話したい、と勉強している人にはショッキングな仮説があります。「言語の獲得には年齢限界がある」と提唱したエリック・レネバーグの「臨界期仮説(Critical Period Hypothesis)」(1967)です。人間は,乳児期から思春期(11~12歳)までの成熟期間を過ぎると,母語話者並みの言語を獲得できなくなるという年齢限界説です。

ああ、もう大学に入ってから勉強したんでは、すでに遅かったんじゃないか、時間を返してほしい、小二の時の父親の転勤先はどうして大阪からパリじゃなくて大阪から栃木だったのか。私はせいぜい覚えても栃木弁くらいじゃないか・・・!と、呪っても時すでに遅し。私はフランス語をネイティブのようには獲得できないのです・・。

しかしそもそも、言語学者たちは第一言語(L1:いわゆる母語)と第二言語(L2)をかなりはっきり区別します。一番大きな違いは、すでに習得している言語があるかないか、ということです。第二言語はその習得時に、すでに第一言語が(頭の中に)存在しています。また、第一言語には教室指導はなく、ある程度の年齢になればだれでも自由に話します。でも第二言語は教室指導が必要になるなど、ネイティブ並みに習得するには、かなりの努力が必要です。

事実、2つの言語を全く同等に扱えるバイリンガルも存在しますし、そのバイリンガルについての研究も多くされています。次回以降のブログでそのバイリンガリズムについて調べようと思いますが、今回はレネバーグの臨界期仮説に注目します。

(写真:アメリカ言語学会より)
レネバーグ(Eric Heinz Lenneberg )(1921年– 1975年)は、言語習得と認知心理学を調べが言語学者および神経学者です。ドイツのデュッセルドルフで生まれたユダヤ人でしたが、ナチスの迫害が高まったため、家族とともにブラジルに、次いでアメリカに移住し、そこで心理学と神経生物学の教授になりました。

レネバーグは「言語の生物学的基礎(Biological Foundations of Language)(1964)」で、言語回復の程度は脳機能の一側化(lateralization)に対応しているとし、一側化後に脳を損傷した場合、母語を完全に回復することはないと考えました。彼の研究は、第二言語習得についてではなく、第一言語(母語)の習得についての臨界期を調べるもので、日本語でいうなら、日本人が日本語をきちんと習得できるのはいつまでか、ということです。

そもそも日本人なら誰でもペラペラに日本語を話しているのに、どうやってそんな研究ができるのか、と思うかもしれません。彼は脳損傷で失語症になった患者の回復する経過を調べることでその理論にたどりつきました。

では失語症とは何でしょうか。
国立研究開発法人国立循環器病研究センターのサイトでは下のように書かれています。

失語症とは
大脳(たいていの人は左脳)には、言葉を受け持っている「言語領域」という部分があります。失語症は、脳梗塞や脳出血など脳卒中や、けがなどによって、この「言語領域」が傷ついたため、言葉がうまく使えなくなる状態をいいます。

余談ですが、私が初めて(ボランティア)通訳をしたのは日本で開催された失語症全国大会でのフランス人ゲストの通訳でした。失語症は英語ではaphasia、フランス語ではaphasieと言います。私はその仕事をするときまで失語症について知りませんでしたが、ご一緒したフランス人男性が脳卒中のあと言葉が出てこなくて苦しいと聞き、病気の大変さにとても驚きました。

レネバーグは言語回復のプロセスを5つのレベルにわけています。
20か月までの乳児:機能的な違いのない同一の半球を持っています。
36か月までの幼児:右半球または左半球のどちらかに偏りがちだが言語を別の半球に切り替えることは簡単。
10歳までの子供:右半球で言語機能を再活性化することができます。
思春期早発症(最長14年):等電位性は急速に低下し、その後は完全に失われます。

彼は、損傷された左半球の代わりに右半球が言語をつかさどることを言語機能の「創造(creation)」ではなく、「再活性化(reactivation)」としました。最初こそ言語の機能は両方の半球にあるが、後で(部分的に)右半球から消えることを示したのです。またこのことから、人間が言語を理解し、表出する能力は最初左右両半球に関係しているが、時間がたつと左半球に偏ってしまう(一側化:lateralization)ということ、言語を学習できる限界はこの一側化のおこる前、10歳前後だろうと考えました。

彼のこの理論はその後多くの研究者によって調べられました。
第一言語の獲得について調べる研究者の中には、その臨界期を過ぎるまで第一言語、いわゆる母語をきちんと習得できなかったケースについても調べた人たちもいました。

中でも、13歳まで部屋に監禁されて育ったアメリカの少女、ジーニーの話は強烈です。彼女の父親は彼女が生後約20ヶ月のとき、鍵のかかった部屋に閉じ込めました。その後も彼女はトイレに縛り付けられたり、腕と脚を固定したままベビーベッドに拘束されたりし、誰とも話せないまま過ごしました。1970年、13歳7か月の彼女はひどい栄養失調のままの状態でロサンゼルス郡に保護されました。発見されたとき彼女は歩くことも話すことも出来ませんでした。彼女の存在は、心理学者、言語学者、科学者の注目を集め、言語学者はジーニーに言語習得スキルを提供するとともに研究対象ともしました。彼女は精神的、心理的に大きな進歩を遂げ、救出から数ヶ月以内に非言語的コミュニケーションスキルや社会的スキルを学びましたが、何年たっても完全な第一言語(母語)を習得するには至りませんでした。

また、「子ども学」(Child Science)研究所CRNのサイトの虐待・隔絶児と言葉の発達;養育不全と心の発達障害には、ジーニー以外にもやはり父親によって1歳半から地下室に監禁され虐待を受け、1967年に7歳で発見保護されたチェコスロバキアの一卵性双生児の事例が記載されています。彼らは救出された後、目覚ましい発達を遂げ、他の人と変わらないまでに成長したそうです。これは激しい虐待状態における発達遅滞があってもその後、良い環境に移されると子どもは急速に再発達できるということ、つまり臨界期以前なら習得は可能というレネバーグの説を裏付けました。

参考   Wikipedia ジーニー (隔離児)
Genie Wiley, the Feral Child(英語サイト)

また、Johnson&Newport(1989)は,第二言語における臨界期について研究しました。彼らは,アメリカ合衆国に住む韓国・朝鮮語もしくは中国語を母語とする46人の被験者を対象に彼等の英語能力を調査しました。彼らの英語の聴解能力hearingは,3~7歳に渡米した人は母語話者並み,11~12歳を過ぎて渡米した人は成績が低くなり,思春期を過ぎて渡米した人びとは複数形と冠詞の習得が困難でした。この結果から、第1言語(母語),第2言語の両方において成熟過程(年齢)が影響をもち,言語学習能力は乳幼児期から思春期にかけてピークとなり,後は減衰していくことがわかりました。つまり、第二言語についても臨界期の存在が裏づけられたのです。

つまり・・。
どうやら私の「RとLが聞き分けられない」というのは、脳の一側化という現象から発生しているようです。臨界期が50歳とか60歳なら希望を持てますが、思春期で終わってるんならもう諦めるしかないかもしれません。

とはいえ、結構通訳・翻訳業界では、別に帰国子女でもなく、ご両親のどちらかが外国語の母語話者というわけでもなくても、大学から外国語を勉強して通訳になっている人も多く活躍しています。彼らはどういう努力をして脳の一側化を飛び越えているんでしょうか。まだまだこの分野は研究のしがいがありそうです。

現在の小学校での英語教育はこの臨界期仮説も参考にしているようで、文部科学省のサイトにもレネバーグもニューポートも名前があげられています。
資料3-2 言語獲得/学習の臨界期に関する補足メモ
英語教育は中学生からでは手遅れだ、と平成になって指導方法が変わったんでしょうか。

さて、上に記載したジーニーは1957年生まれなので現在60代。「ジーニー」はプライバシー保護のための仮名だそうです。Genieは(イスラム神話の)精霊、妖精、 魔神、 魔人で、アラジンのジニーと同じです。当時の論争や研究に巻き込まれてしまったようにも思える彼女、今は穏やかな生活を送っていてほしいと心から願います。

参考資料

Critical Period Hypothesis on Language Acquisition 言語習得 の臨界期 について 
Lenneberg’s Critical Period Hypothesis
アメリカ言語学会 A 50th anniversary tribute to Eric H. Lenneberg’s Biological Foundations of Language
コトバンク 言語獲得の臨界期仮説
アルク 第二言語習得論


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日本語教育能力検定試験に落ちました

<ある通訳の日誌>詩の世界 詩のこころ 4

2021年9月17日

詩の世界 詩のこころ
橋爪 雅彦
1
フィッツジェラルド
森(もり) 亮(りょう)訳
オーマー・カイヤム「ルバイヤート」四行詩

第一回
第二回
第三回
―第四回ー

4.「一国の王様よりも幸せ」という世界
ルバイヤート第十一歌(森 亮訳)
ここにしての下かげに歌の巻
酒の一壺、かてし足り、かたへにいまし
よきうたを歌ひてあらばものににず、
あら野もすでに楽土かな。

木陰にて詩集を開き、美味しいワインとわずかなパンと、そして貴女あなた
私の脇で、あなたが歌えば、何物にも代えがたく、
ああ、あら野も天国だ。

―Edward Fitzgerald  ―Ⅺ―
(フィッツジェラルド第十一歌)
Here with a Loaf of Bread beneath the Bough,
A Flask of Wine, a Book of Verse ­ and Thou
Beside me singing in the Wilderness ­
And Wilderness is Paradise enow.

これもまた美しい韻律です。Bough、Thou、enowと[au]で脚韻します。名詞を大文字で書くのもやや古風な形です。enowはenoughの古形にあたります。Thouは二人称主格にあたる古語です。

森 亮の文語訳も見事です。中国の漢文訓読調から古事記、日本書紀、そして万葉集、古今和歌集、新古今和歌集などの膨大な古典的教養を自己薬籠中のものにしている彼のような博学な翻訳者に比べると、私などは恥ずかしい限りですが、この詩には私なりの思い入れがあり、あえて私の無学を顧みず訳してみました。もちろん文語調では不可能で、現代語で訳しました。

この詩は、現実に起こり得ている状態を歌っているので直接法現在です。さて、そうだとすると、もし私なら、この詩をどういう風に翻訳するでしょうか。

「砂漠なる地の大枝おおえだもと ワイン傾け
一冊の詩集とわずかなるパン ­ そして貴女あなた
私のかたわらであなたが歌えば、ああこの砂漠さえ
完璧な天国であると 私の心は満ちたりる!」(拙訳)

■ ワインのこと
19世紀のイギリスでは、ワインは普通に飲まれるアルコール飲料でした。フランスのボルドーもかつてイギリス支配の地域でしたから、ボルドーからイギリスへは盛んにワインが輸出されていました。
ところが、日本では、カイヤムの詩を翻訳し始めた明治の時代、wineは「お酒」あるいは「葡萄の酒」「葡萄酒」いう風に訳す以外、一般の人には理解できないものでした。

私が子供時代を送った昭和20年代でさえ、日本ではワインという飲み物は珍しいものでした。
一般の家庭でもレストランでもワインを手元に置く習慣はありませんでした。また大人たちが催す宴会でも、ワインはありませんでした。わずかに「赤玉ポートワイン」という名称のワインらしきお酒は市販されていましが、現在市販されているワインとは相当かけ離れたものでした。

思えば、隔世の感があります。
明治5年に群馬県の富岡に日本で最初の官営富岡製糸場ができ、フランス人たちがやってきて日本の女性たちに生糸の器械生産を教えることになりました。が、肝心の日本の若い女性たちがなかなか応募してきません。その理由は、フランス人たちが、夜な夜な赤い血を飲んでいるという噂でした。「とてもじゃないけど、自分の娘をそのような吸血鬼の所へ働きに出すわけには行かない。娘の血が吸われてしまう」という親の反対もあって、富岡製糸場の工女募集はかなり難儀なものでした。

Christian Polak著「絹と光 日仏交流の黄金期」HACHETTE―FUJINGAHO社刊より転載しました。

器械製糸での生糸生産が、外貨獲得のための近道であるという明治政府は、どうあっても器械製糸を稼働させる必要に迫られており、日本の近代化のためにという大義名分を喧伝し、最初は、武士階級や地主階級の若い女性たちを富岡製糸場へ動員するという形をとりました。
当時、各県の県庁からは県下の村長宛てに「13歳より25歳までの女子を富岡製糸場へ出すべし」というお達しが回り、若い女子を持つ親たちは随分と悩んだ様子が、富岡製糸場の工女になった和多英子の日記に書いてあります。
「やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には、『区長の所に丁度年頃の娘があるに出さぬのが何より証拠だ』と申すようになりました。」(和田英子 富岡日記より)。
そんな風潮のなかで、区長(村長)であった英子の家では、父親も一大決心して英子を富岡製糸場へ出すことになった次第で、当時の日本の田舎では、異人たちが若い娘の血を取って、ああして毎晩飲んでいるのだと思われていました。それがワインでした。

ギヤマン(ガラス)の器で赤い血を飲むフランス人。近郊近在の人たちには恐怖の対象でした。が、和田英子の日記にもありますように、最初は恐怖の対象でしたが、フランス人たちと働いているうちに、フランス人たちに進められてワインを飲んでみると、結構美味しいので、ワインに対しての偏見は次第に無くなっていきました。

明治、大正、そして昭和の半ばまで、ワインは「酒」とか「葡萄酒」とかに訳されていました。日本人の日常生活の中では、ワインはほとんどその存在を認められていませんでした。

さて話をこの詩に戻しますと、
広大な砂漠の中にあるぽつんとした一本の木、その緑なす大枝の下で、若い美女を相手にワインを傾け、詩集を開き、美女が歌い、わずかなるパンを食するとは。

私には、サハラ砂漠での生活が多少ともありますが、ある日、冷蔵コンテナで運ばれてきた生野菜(レタス、タマネギ、ニンジン等)をドレッシングをかけて生のまま食べたことがあります。コンテナを改良したハウスの中から目の前に広がる砂漠を見つつ…
砂漠ではいうまでもなく生の野菜は一切育ちません。
その野菜を眼前の砂漠の中で食するとは、人間って、本当に心理的な生き物だな、という感を強くしました。普段、都会の生活の中で食べている生野菜よりも数十倍もおいしいという事実。同じ生野菜でありながら、格段に違うのです。

ましてこの詩のように、砂漠の緑なす木の下で、砂漠の地では生産できないワインを傾け、また砂漠の地では育たない小麦、その小麦からなるパンを食し、若いピチピチの美女を相手なら、これはもう一国を支配する王様よりも幸せな気分でしょう。

はからずも一国の王様よりもと云いましたが、実は、この詩の別のヴァージョン Justin Huntly MacCarthyが訳したマッカシー版では、次のようになっております。

MacCarthy (449) マッカシー版(第449章)
Give me a flagon of red wine, a book of Verses, a loaf of bread, and a little idleness. If with such store, I might sit by the dear side in some lonely place, I should deem myself happier than a king in his kingdom.
(私にひと瓶のレッドワインと一冊の詩集とわずかな自由を与えてください。これだけあれば、そしてどこか人気のない場所で、愛する者のそばに座ることができたなら、私はかの王国における王よりも自分を幸せだとみなすでしょう。)

―続くー

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