翻訳業界というのは、いろんな分野から転職してみようと人が訪ねてくる業界のようで、金融会社の社内通訳だった人がフリーランスの通訳に転向したり、化学品メーカーで勤務後に特許翻訳者になったりする人もいます。通訳・翻訳者希望の方にお会いするとこちらのほうが勉強になることも多いですし、ご本人は「法律を勉強したといっても商法専門でして・・」とご謙遜されてるのに「他にどんな専門があるんですか?」と聞いて唖然とされたこともありました。
あるとき、日本語学を大学院で研究されている方とお会いしたことがありました。外国語もできるので翻訳者を目指してみようかと思っていらっしゃっているとのこと。
「日本語学を専門に学ぶって・・・あ!「が」と「は」の違いとかを研究する学問、そうですか?」
「そういうのもありますね。」
「知りたいです!教えてください。」
というと、ご本人は少し困った様子。「あれ?どうしたんですか?」と聞くと
「説明してもいいですが、1時間ほどかかってもいいですか?」
面談にきていたのに1時間の講義をしていただくわけにもいかず、その日は断念しましたが、今回はその時から謎だった「は」と「が」の違いについて書くことに挑戦してみたいと思います。
まず最初は日本語の助詞(particle)の種類を知る必要があります。助詞には以下の種類があります。日本語の助詞は例えば英語のat, in, ofなどの前置詞(preposition)とは逆に後ろにつくので後置詞(postposition)と呼ばれることもあるそうです。(そういわれて初めて過去英語で何度も見た「前置詞」の意味がわかったと思ったのは私だけでしょうか。)
さて、助詞・・と聞いただけで学校で習った文法を思い出してゾッとするかもしれませんが、「が」と「は」の説明には欠かせない知識なのでここはぐっと我慢して見ていきましょう。以下に日本語の助詞の種類を示します。
格助詞 | case markers | が・を・に・へ・と・から・より・で・まで (「の」を入れる場合もあります。) |
とりたて助詞 | focus particles | は・も・ こそ・ さえ・まで・すら・でも・だけ・のみ・など・・・ |
終助詞 | sentence ending particles | よ・ね・ぞ・ぜ・わ・か・・・ |
接続助詞 | conjunctive particles | けど・が・ので・から・たり・し・と・ば・たら・なら・・・ |
並立助詞 | parallel markers | と・か・や・に・やら・だの・とか・・・ |
複合助詞 | compound case particles | に対して・にとって・について・に関して・をめぐって・として・・・ |
いろいろありますが、今回は「が」が入っている格助詞と「は」が入っているとりたて助詞だけを見てみます。
格助詞は、主に名詞に付いて、動詞との関係づけを行います。文の中で勝手に位置を変えることはできず、文の骨組みを作るために必要な助詞です。
とりたて助詞は、その文の中で述べられていること以外の情報を提示する助詞で、格助詞と違ってかなり自由に位置を変えることができます。「とりたてる」機能からとりたて助詞と呼ばれるようになりました。
(お金を催促する「取り立て」ではなく、「多くの中から特別に取り上げる」の意味。)
「が」と「は」以外に、例えば「まで」は格助詞にもとりたて助詞にもありますが、これは「駅まで行ってくる。」の「まで」と、「君までうそをつくのか。」の「まで」の違いです。「駅まで行ってくる。」には特に文以外の意味は感じられませんが、「君までうそをつくのか。」には、君がうそをつくことに驚いているというニュアンスが加わっています。
ちなみに、とりたて助詞は、学校文法では「係助詞」「副助詞」と教えられている助詞たちです。
格助詞がニュートラルに語同士の方向性を示してくれるのに対して、“とりたて助詞”はちょっと特別なニュアンスを追加します。では、「が」と「は」を比べてみましょう
「え・・どっちも主語じゃないの?」
と言いたくなりますね。確かに英語に訳すとどちらも「The flower blooms.」。
「花が咲く。」
ここでは花が「咲く」の主体(subject)であることを表しています。
「花は咲く。」
ここでは花がこの文の主題(topic)であることを表しています。「about」とか「concerning」のように考えてみたらいいのかもしれません。「花に関していうと、咲きます。」とも考えられます。
「~は」は主題を示し、「~が」は主格を示します。主題を示す「は」のある文を有題文(または主題文)、「は」のない文を無題文といいます。無題文は一般に、主格を示す「が」はありますが、主題を示す「は」はありません(有題文と無題文について詳しく載っているサイト:有題文と無題文)。
上記では「花は咲く。」は恒常的、繰り返し起こることとして、「主題」を表していますが、下のように一時的な事態(過去)になると、「主題」のニュアンスが消え、別の「対比」のニュアンスが強く表れます。
「花が咲いた。」は特に文章以外の情報を特に感じませんが、「花は咲いた。」になると、「え?何は咲かなかったの?」と聞きたくなるニュアンスを醸し出します。これが「は」のもつ「対比」の用法です。
では次はどうでしょう。
「花がきれいだ。」・・・って言えなくもないけれど、「花はきれいだ。」のほうが自然な気がします。「花がきれいだ。」は、突然目の前に花畑が現れて見とれて言っているようにも感じます。「赤い花が一番きれいだ。」のようにすると違和感がなくなります。なぜでしょう。
これは「が」が形容詞文や名詞文につくと「中立の「が」ではなく、「排他的な「が」(または総記の「が」)」になってしまうからです。ただ、口から思わずこぼれた「花がきれいだ!」のような用法は中立叙述の「が」のままです。
さて次も見てみましょう。今度は述語を変えてみます。
「花が咲く。」「花は咲く。」の文章では「花」は主語・主格でしたが、同じ「が」と「は」でも、ここでは「好き」の目的・対象となっています。実はこれには述語が関係しています。「が」は「好きだ」「憎い」「ほしい」など述語が感情・感覚を形容詞で表すとき、その感情・感覚の向けられる対象を表します。
(*英語だとlike, hate, want と全て動詞なのでややこしいですね。しかし日本語の「嫌い」「好き」は形容詞。日本語の述語は全て動詞ではないので、英語の文法で習うS(主語)+V(動詞)+O(目的語)は、日本語の主語述語には当てはまりません。)
最後に、「が」と「は」の用法をまとめてみます。
が | は | |
助詞の種類 | 格助詞 | とりたて助詞 |
用法 | ①前接する名詞が「動作・出来事の主体」であることを示す。
動詞文のとき:中立叙述の「が」 ②前接する名詞が「目的・対象」であることを示す。(状態性述語の場合のみ) |
①前接する名詞が文の主題を表す。(主題の「は」はどの助詞にも属さない特別な助詞とも言う説もあります。)
② 前接する名詞が対比を表す。 |
こうみると、「は」と「が」の話は複雑で、調べだすと迷路に迷い込んだ気持ちになります。この話題で本や論文もたくさん出ています。日本語を母語とする人にとっては意識して使い分けることはないとしても、説明しようとすると重労働です。英語の定冠詞や単数・複数といった使い分けは英語ネイティブには簡単でも、学習者には難しいのも同じなのかもしれません。
上記以外では、主題を表す「は」は複文(主語・述語が複数ある文)のうち、ある一定の節の中では使えないという制約もあります。例えば「花はガーベラなら」、「花は咲いたとき」、「花は咲くように」、「私は買った花は・・」、「私は花を買ったこと・・」などは言えません。もしも気になったら是非もっと調べてみてください。
「は」って特別なんだなあ・・・
と思いましたか?
そして「は」が他の助詞と違って特別である理由にはこれ以上に下の特徴があげられます。
下は夏目漱石の「吾輩は猫である」の冒頭です。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。・・・・ |
最初の「吾輩は」はその次の文章「どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。」にも「何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。」にも働いています。
三上章(1903年 – 1971年)という言語学者がこれを「は」の「ピリオド越え」と呼びました。最初の文の文頭の「は」が、ピリオドを超えて次の、またそのあとの文章にも係っているというものです。(『象は鼻が長いー日本語入門』)三上氏は「日本語に主語はない」と喝破したらしく、その伝記も出版されています(主語を抹殺した男/評伝三上章)。気骨のある言語学者ですね。
なるほど・・・。これが日本語の機械翻訳が難しい理由の一つなんですね。ためしに冒頭の文章を英訳してみます。
(機械翻訳) I am a cat. There is no name yet. I have no idea where he was born. I remember only crying in a dim and damp place. |
突然”he” が出てきて、逆に「一体だれのこと?」と思う文章になってしまいました。AI翻訳が主語を取り間違うのは、日本語の構造に理由があるんですね。主題が2センテンス前にあるなんて、AIもなかなか気づけないですよね。(しかしAI翻訳は日進月歩で進化しているので時間の問題かもしれませんが・・・。)
最後の最後に。ここまで見てきた私の個人的な「は」の印象は野球でいうとホームラン。「は」でホームランを飛ばしたあとは、「が」のヒットがいくつか入っても点数が入る・・・・。やはり「は」は助詞の王様なんですね。(鍋田)
参考
新版 日本語教育事典
アルク 日本語の文法―基礎 山内博之
<めざせ語学マスター>日本語教育に関するブログはこちら
英語は聞いていたらペラペラになる・・・か?(クラッシェンのモニター・モデル)
チョムスキー・ナウ(Chomsky, Now)!
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