娘が小学校2年生になったとき、ピアノを習いたいと言い出しました。
ちょうど「クラシックの名曲」というCDつきの子供用の本を買って、寝る前に聞かせていたころだと思います。モーツアルトの「きらきら星」なども入っていて、私も子供たちの横で鍵盤があるように指を動かしたり、指揮者になったようなふりをしたりして寝かしつけていました。
ピアノを始めるにあたって鍵盤が50個くらいしかないキーボードを買ってきました。娘が弾いていないときに、私もキーボードについてきた楽譜を見て、その昔、中学生まで習っていたピアノを思い出して時々練習し始めました。すると・・「鍵盤が足りない」ことに気づきます。もっと高い音があったはず、とか低い音があったのに鍵盤がない・・。
結局自分の要望で88鍵盤のキーボードを買うことにしました。するとまた少し上のクラスの楽譜がついてきたので、弾けそうだなと思える曲を選んで練習するようになりました。ただ、昔弾いていた曲は指が覚えていたりもしますが、新しい曲は楽譜を一つ一つ丁寧に読んで確認しないとなかなか弾けません。あるいは、途中まで弾けても頭の中で「あれ?ここはどの音だったっけ?」と思ったとたんに指が止まって動かなくなります。
昔弾いていた曲や、最近ずっと弾く曲は楽譜がなくても弾けるものもあります。ただ、それは楽譜が頭に入っているわけではなく、頭を通さずに指が動くような感覚です。(念のために言っておきますが、ピアノ自体は上手くなく、中学校時代であっても「エリーゼのために」をやっと弾けるぐらいの力量でした。おまけに当時ピアノは本当に嫌々やっていました。それでも、です。)
それはパソコンのキーボードを叩くとき、最初は「Aはどこ?」「Wはどこ?」と探していたのが、いつからかブラインドタッチができるようになるのと同じような感覚だと思います。他の人と会話しながらスマホで別のメールを打ったりするとか、意外と人は神業のようなことを意図も簡単にやってのけます。
長くなりましたが、今回はそういった頭でわかっている知識と、体で覚えている知識の違いについてです。
私たちは生活上、常に新しいことを学習しています。ピアノの練習もそうですし、キーボードの使いかた、自転車の乗り方、自動車の運転の仕方、はたまた外国語の書き方や話し方、様々なソフトやアプリケーションの使い方、などなど。そのためには、まずは楽譜の読み方を習ったり、教習所で交通法規や基本操作を勉強したり、取扱説明書を読んだりします。
ジョン・R・アンダーソン(John Robert Anderson, 1947年ー)というカナダ生まれのアメリカの心理学者は、そのような「技能の習得」をモデル化しました。彼は、楽譜の読み方や、交通法規、歴史の年表など、ある事柄に関する知識(Knowing-what)で言語化しやすいものを「宣言的知識:declarative knowledge」と呼び、体が勝手に動くような「やり方」に関する知識で言語化しにくい、でも何かをするときに行動の一環として現れる知識(Knowing-how)を「手続き的知識:procedural knowledge」と呼びました。彼はこの二つの知識を別のものとして考えました。
例えば車を運転して、「次は右折だ。ウインカーをださないと・・」と思っても「ハンドル横のライトスイッチを下方向に動かして軽く押さえればウインカーが点滅するはず。」とは、初心者以外はなかなか思わないのではないかと思います。そのような知識は「宣言的知識」ですが、普段運転している人はそんなことを考えず、無意識に手を動かしています。私自身、運転中に曲がり角にくるとほぼ意識せずに手を動かしていることに気づきました。いったんそうなると、逆に学科テストで「説明せよ」と問われても、言語化することが難しいかもしれません。
このモデルでは宣言的知識は、練習によって手続き的知識に変わっていくと考えられています。外国語の学習も同じで、最初はその言語の文法や語彙を覚えるために意識的に繰り返し音読したり、文を書き写したりするなど、その言語を使うための情報を吸収します(宣言的知識)。その後外国人と話したり留学や仕事で海外にいくなどして、考えなくても言葉や表現がスラスラ出ていくと、宣言的知識も手続き的意識になっていきます。ただ、現在のように学校で習う英語が受験のための学科にとどまっている間は、きっちり吸収されたとしても、「宣言的知識」のままかもしれません。
また、その逆に、いわゆる「匠」的な職人さんには「どうやって出来るんですか?」と聞いてもうまく説明できない人もいるかもしれません。一方で、自分の技術はそこそこだけれど、人に説明したり教えたりするのが得意な人もいて、そういう人は宣言的知識が豊富なんだと思います。
また、手続き的知識は私でさえピアノを弾くときの「指の感覚」を何十年後も覚えているくらい、長続きします。また、こういった長続きする記憶のことは「長期記憶(long term memory)」と呼びます。
アメリカの心理学・認知科学の教授、アトキンソンとシフリンは記憶のシステムを研究しました。彼らの示したモデルが「二重貯蔵モデル(multi-store model ), 1968」です。このモデルでは記憶として短期記憶(short-term memory)と長期記憶(long-term memory)があります。
情報はまず視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの感覚登録器(sensory registers)で入力されます。その保持時間はわずか数百ミリから数秒。その次に選択された情報は短期貯蔵庫(short-term store)に入ります。保持時間は15~30秒。その後、長期貯蔵庫(long-term store)に入ります。短期貯蔵庫に入っているのが短期記憶であり、長期貯蔵庫に入っているのが長期記憶です。短時間貯蔵庫の情報はワーキングメモリ(作動記憶)とも呼ばれています。
短期記憶から長期記憶へ、どうやったら情報は転送されるのでしょうか。代表的な方法がリハーサル(rehearsal)です。何度も繰り返して短期記憶を維持する方法です。また、新しい情報と既に持っている知識を結びつけること、これを「精緻化(elaboration)」と呼びます。
リハーサルはまさにピアノを楽譜を見ながらコツコツ繰り返す作業のように、外国語なら音読したり、手で書いたり、おしゃべりしたりすることです。
宣言的知識も手続き的知識も長期記憶ですが、宣言的知識はさらに「エピソード記憶(episodic memory)」と「意味記憶(semantic memory)」に分かれます。外国語の学習ではほとんどがエピソード記憶に支えられています。私の個人的経験でいえばくじらのフランス語”balaine(バレーヌ)”は、私の強烈なエピソードに紐づけられていますが(エピソード記憶)、日本語のくじらは、ただクジラのイメージに重なっているだけです(意味記憶)。
様々な感覚器官に入る新しい情報は、その中から必要な部分を抜き取って短期貯蔵庫に運ばれます。これを「符号化(encoding)」といい、短期貯蔵庫に入ることを「貯蔵(strage)」といいます。一度長期貯蔵庫に貯蔵されればあとは「検索(retreaval)」して探したり整理したりできるそうです。年をとると「あれー、あれ、あれって何て言うんだっけ?」というのが増えますが、長期貯蔵庫に入っている情報はなかなか完全には消えないらしいですよ。(本当かな・・)
私は過去何度も受けた日本語教育の試験で、ほぼ毎年のように繰り返し同じような用語を眺めてきました。軽いリハーサルをしてきたけれど、ものにならず。そうして始めたのが、このブログ。今思えばこうやって文字にすることで私は今までパラパラ見てきた知識を長期貯蔵庫へ転送すべく、精緻化しようと書いてきたのだと思います。
しかし次の試験まで残り1週間になった今、再び過去問を見て愕然としています。全体の範囲に比べると、ブログで書いていることは結局ほんのごく一部。精緻化できたとしても少なすぎます。まあ、また落ちても落ちていなくても懲りずにコツコツ書いていこうと思います。(ため息)(鍋)
参考:第二言語習得論 アルク、新版日本語教育事典 大修館書店
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